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明治大学校歌

児玉花外作詞、山田耕筰作曲の明治大学校歌は「白雲なびく駿河台…」で始まりますが、作詞作曲には苦労が隠れているのです。
苦労話を御紹介しましょう

明治40年、創立30周年が迫る中、まだ校歌らしい校歌が有りませんでした。
そこで校歌の募集を行いました。
集まってきた歌詞を選考会で検討したのですが、残念ながらこれならばということのできる作品は有りませんでした。

そこで、責任を感じ、校歌作成の委員であった当時読売新聞記者の田能村梅士と、学生であった藤沢衛彦が自分たちで作ることにしました。
これが最初の校歌となりました。

しかしこの校歌は評判が良くなく、あちこちから不評を買い、しばらくたつと歌われなくなってしまいました。
学生たちが校歌の代わりに歌ったのは、「白熱党歌」で、「ニコライの鐘塵に染み・・」という歌でした。

学生たち自らが校歌の無いことを嘆き、何とかしようと武田ら3人の学生が立ち上がり、校歌を作ることを校長に許可を得ました。
大学側もその必要性を認め、バックアップしてくれました。
教授まで乗り出し、その教授の紹介によって、当時名を馳せていた詩人、児玉花外に作詞を依頼することになりました。

4ヶ月ほどかかりましたが、児玉花外から待ちに待っていた歌詞が届きました。
今度は曲を作らなければなりません。
武田らは、作曲家の第一人者と言われた山田耕筰に作曲を依頼しました。

ところが偉大な作曲家、山田耕筰は、引き受けては見たのですが、児玉花外の今の歌詞では自分は作曲できないと言い出したのです。
そこで児玉花外の了解を得て、しかたなく別の詩人西条八十に修正を依頼することにしました。

出来上がった新しい歌詞に対して、山田耕筰はまだ了解を出しませんでした。

やむを得なくなった武田らは、大家と言われる三木露風に再度の修正をお願いしたところ、何とか山田耕筰がこれならばやってみましょうと言ってくれたのです。

引き受けた山田耕筰は自分で更に歌詞を変更しました。
三番を一番に持ってきて、「白雲湧ける・・」を「白雲なびく・・」に変えました。
こうして山田耕筰は作曲を終え、校歌が完成したのです。

山田耕筰の仕事は実に熱心なのです。情熱が入っているのです。
きっちり納得のいく仕事をする人だったのです。
出来上がった校歌の演奏には、自ら指揮したとも言われています。

多くの人の情熱と努力によって明治大学の校歌が作られたのです。