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荒城の月

荒城の月の歌詞の意味は大変深く、無常観まで言い及んでいます

荒城の月 歌詞の意味解説

荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞、原曲は瀧廉太郎の作曲、編曲は山田耕筰です。仙台城がモデルとされたのではないかと言われます。ここでは歌詞の意味を解説します。荒城の月の本当に言いたかった真意は仏教の心「無常」にあったと考えられます。
多くの城は歴史においてその「無常」を物語っています。
変奏曲演奏などまで幅広く紹介しますので、右の詳細説明目次から入ってみてください。

東京音楽学校の依頼

東京音楽学校は日本で初ての音楽学校として作られました。1890年に開校されています。
修業年限1年の予科、修業年限を2年とした師範科、修業年限を3年とした専修科がありました。
現在の東京芸術大学の前身です。
学校で教える歌を唱歌と言いますが、中学生のための唱歌を作る必要がありました。
そこで東京音楽学校は土井晩翠にそのための歌詞を作ってくれるよう依頼しました。

土井晩翠の作詞

明治33年、土井晩翠は、母校である第二高等学校の教授となっていました。
東京音楽学校から依頼された土井晩翠は、おそらく何回も書き直しながらようやく作り上げ、「荒城月」と題する歌詞を作りました。この歌詞が荒城の月の歌詞です。
最初に作られた歌詞の表題は「荒城月」であり、「荒城の月」ではありませんでした。
変更された理由は定かではありませんが、翌明治34年に「荒城の月」として発表され、『中学唱歌集』に記されています。
土井晩翠は明治4年生まれです。
当時の仙台県、仙台の北鍛治町に、富裕な質屋の長男として生まれました。
家業に従事しながら英語の教育を受けていましたが、帝国大学英文科に入ると、英語の他、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語も学びました。
晩翠は妻子に次々と先立たれたこともあり、心霊学にも関心を示し、昭和21年日本心霊科学協会の顧問として関わっています。
また、日本の各地の学校の校歌を作詞しています。特に浅水小学校の校歌は有名です。子供のころ通っていた母校の木町通小学校の校歌も作詞しています。
昭和25年、詩人としては初めての文化勲章受章者となりました。文化功労者にも選ばれ、同時に仙台市名誉市民にもなっています。
土井晩翠の実家は仙台にあり裕福な家でした。この家は大林寺という寺の檀家総代を務めていました。
その関係から、生まれた時から仏教に縁があったのですが、サイト、「仏教の父とキリスト教の子」にも記されていますように、幼いうちはあまり信仰心は無かったようです。
しかし年を重ねるにつけ、仏教を深く信仰し、理解も深めていったようです。
荒城の月の歌詞の中には、この仏教の根本的な教え、「無常」と言う考え方が織り込まれていると思われます。
土井家の菩提寺は大林寺です。ここには土井晩翠の墓が今でも残っています。

瀧廉太郎の作曲

明治33年、東京音楽学校はこの土井晩翠の詩「荒城月」に曲を付けようと考え、作曲の懸賞募集をしました。
この募集に瀧廉太郎が応募しました。結果、この曲が第一位として見事採用されました。
哀切をおびたメロディーと土井晩翠の歌詞は一体となり、非常に悲しげな歌となりました。七五調に作られている歌詞と西洋風のメロディーが融け合った楽曲です。
この原曲メロディーの中で、「春高楼の花のえん」の「え」にシャープが付いており、この部分は日本調と言った感じではなく、独特の雰囲気をかもし出しています。
瀧廉太郎は、日本の音楽家でもあり、優れた作曲家です。明治の代表的音楽家の一人です。
明治12年瀧吉弘の長男に生まれましたが、瀧家は以前、代々に渡り家老職をつとめた家柄でした。
父の吉弘は大蔵省から内務省に移り、大久保利通や伊藤博文らの内務官僚を務めたり、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などに住んだため、廉太郎も日本各地を回ることになりました。
15歳で東京音楽学校に入学しました。その後本科を卒業したあと研究科に進んでいます。
こうして瀧廉太郎は作曲の才能を伸ばしていきました。
明治時代の前半にはすでに多くの唱歌ができていました。しかしこれらは外国の曲に日本語の歌詞を当てはめたものでした。このため多くの唱歌は"無理にはめこんだ"という感じがする歌が多かったのです。このような事情から、日本人作曲家による歌を望む声が高まっていました。
瀧廉太郎の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と共に文部省編纂の「中学唱歌」に掲載されました。
音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として明治34年ドイツのベルリンに到着しました。
しかしわずか5か月後に肺結核を発病してしまいました。このため彼は帰国せざるを得なくなりました。
明治35年ロンドンを経由して日本に帰り療養していました。しかし翌年自宅で亡くなっています。満24歳でした。
荒城の月の作詞作曲は土井晩翠と瀧廉太郎の共同作業で完成したものではなく、詩を考え、その詩に曲を付けたと言う経緯であったため、彼ら二人は直接の面識はありませんでした。
しかし明治35年、帰国途中だった瀧廉太郎はロンドン郊外のテムズ川河口港に寄港したとき、そこに居た土井晩翠と日本郵船「若狭丸」上で初めて会っています。この面会は最初でだったのですが結局最後の対面となっています。

山田耕筰の編曲

現在歌われている荒城の月は、山田耕筰の編曲した曲なのです。
瀧廉太郎が作曲した原曲は、8小節で、「花のえん」の「え」にシャープが付いていました、山田耕筰は16小節とし、シャープを取ると言う編曲を行いました。
更に、曲全体の高さを変える移調を行い、伴奏もピアノで出来るようにしました。
小節や移調、伴奏は大したことではないかもしれませんが、主旋律のシャープを1個取り除いたことは山田耕筰の偉業と言えるのではないでしょうか。
たった1個のシャープですが、これが有ると無いとでは曲全体の感じが違ってくるのです。
私たちは、当然このようなシャープが付いていることなど知らず、歌ってきましたが、原曲には有ったのだと知り、付けて歌ってみますと、なるほど感じが全然違います。
三浦 環(みうら たまき)という国際的な名声をつかんだオペラ歌手が居ました。
三浦 環は外国でも歌うたうため、山田耕筰に荒城の月の編曲を依頼しました。
この依頼を受けて、山田耕筰は三浦のためにシャープを取ったのです。
東京音楽学校の橋本国彦助教授は次のように述べたと言われます。
――欧州の音楽愛好家に「荒城の月」を紹介する際は、山田耕筰の編曲にすべきである。滝廉太郎の原曲はジプシー音階の特徴をもつため外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想するであろう。外国で歌う機会の多い三浦にとっては その方が良いとの判断だったのだろう。と――
セノオ音楽出版社から独唱「荒城の月」が出版されていますが、大正9年版にはシャープがついており、大正13年版にはシャープが付いていません。
この後、山田耕筰の編曲によるシャープなしの曲が荒城の月の曲として一般に定着してきました。
山田耕筰は、作曲家であるとともに指揮者でもあります。抑揚を巧みに使ったメロディーで多くの作品を残ししています。日本初の管弦楽団を造るなど西洋音楽の普及に努めた人です。
国際的にも活動していました。欧米でも知られた音楽家です。軍歌の作曲も多く手がけています。
大学校歌も沢山手掛けています。
日本大学校歌、明治大学校歌、駒澤大学校歌、同志社大学歌、一橋大学校歌など30校以上に上ります。
千葉県立船橋高等学校校歌など、高校の校歌も沢山作っています。50校近くあります。
中学校を始め、小学校の校歌なども数多く作っています。
その他、東京市歌など自治体歌や日本電気社歌など社歌も作っています。

荒城の月の歌詞の意味

一番
「春高楼の花の宴 巡る影さして 千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ」
高楼は高い建物のことで、天守閣を表します。
時は春、花が咲いている頃、天守閣の前の広場では大勢の人たちが盃を廻し、酒を飲みながらの大宴会が行われていました。
ご婦人方も居られたことでしょう。その大宴会は夜まで続き、月の光は松の枝の間から差し込んでいました。
昔はこの城で、栄華を極めた大宴会が行われていたのでしょうが、今はその建物もなくなり、荒れ果ててしまっている。
昔の栄華はどこに行ってしまったのだろうか。

二番
「秋陣営のの色 鳴きゆくの数見せて 植うるに照り沿ひし 昔の光今いずこ」
秋とはいえ、冬に近いころ、これから戦いのために集まった大勢の兵士たちが広場に集まっていました。渡り行く雁の姿が見えるほど月はこうこうと照り、広場の周りには霜が光っていました。
城主は一段高いところから、いざ行くぞ、エイ、エイ、と発すれば、広場の兵は一斉に刀や槍を空に突き上げ、オー、オー、と大歓声で応えました。
この一斉に突き上げられた剣は月に照らされ、まるで林のように植えられているようでした。
このように、昔はこの城は勢力を誇っていたのでしょうが、今はだれもおらず、城は荒れ果てています。
昔の勢力はどこに行ってしまったのだろうか。

三番
「今荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ 垣に残るはただ 松に歌うはただ嵐」
今、城の姿は無く、石垣が残っているくらいであり、その石垣にはツタが生い茂っている。松の枝は風でひゅうひゅう音を立てている。
しかし、この荒れ果てた城を昔と変わらず月は照らしている。一体月は誰のために照らし続けているのであろうか。

四番
「天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」
天の上の影というのは、目には見えない神の力、自然の働きを意味しています。
自然の働きは昔も今も変らないけれども、この世の中の全ては栄も枯も移り変わるものであると言うことを、映して見せようとでもしているのか、荒れ果てた城の上に鏡のような月が昇っている。

荒城の月の本当に言いたかったこと

荒城の月の歌詞の意味は直接的には上記のようになります。
しかしもう少し解釈を深めてみますとそこには土井晩翠の心の内が見えてきます。
歌詞一番では昔の栄華は今は無い、二番では昔誇っていた勢力も今は無い、三番では月だけは変わっていないと言っています。
そうして四番でまとめています。「栄枯は移る」の一言です。
荒城の月の歌詞を通して土井晩翠の本当に言いたかったところはここに在ります。「栄枯は移る」です。
「栄」も「枯」も時と共に移り変わっていくのであり、これがこの世の姿であることを、月が鏡となって映し出し、人々に伝えようとしているようであると歌っています。
土井晩翠は仏教を信仰し、深く理解していたものと思われます。土井家は菩提寺の檀徒総代だったからです。
仏教の根本概念として、「無常」と言う言葉があります。常が無いと書かれていますが、この常というのはいつまでも変らないことを意味しています。常でありうると言うことは変わらないでいられると言ことですが、常は無いとされているのですから、いつまでも変らないものは無いと言っているわけです。
この無常という言葉は知れば知るほど大変な意味を持っていることが分かります。10年前と今とでは違っていると言う意味は当然です。一時間前と今は違っていますし、一秒前とも今は違っています。
どれだけ時間を小さくしても同じ状態は無いのです。
現代の物理学者が量子論を唱えていますが、アインシュタインもこの仏教の論理には感心したと言われています。原子や電子が動き回っているのですから同じ状態は一瞬たりともないわけです。
土井晩翠がどこまでの意味で言いたかったのか定義づけることは出来ませんが、おそらく年月の意味で人の世は変わっていくと言いたかったのではないでしょうか。その長短は論ずる必要はありませんが、荒城の月では「栄枯は移る」とされており、これは仏教の心「無常」を示しています。
荒城の月の歌詞の中で「無常」を直接言いたかったのかもしれませんが、これは宗教用語であり、用いなかったのではないかと思われます。
しかし歌詞全体を通してみても、四番の「栄枯は移る」を見ても、この無常観を言おうとしていることは明らかだと思えるのです。
土井晩翠は仏教に精通していたからこそ、この移り変わらざるを得ないのだと言うことを人々に伝えたかったのです。
土井晩翠作詞の、荒城の月の真意は、この世の中は「無常」であると言うことを人々に伝えることにあったのです。
歌詞は見事な情景を示し、目の前に絵姿として見せてくれます。素晴らしい詩です。土井晩翠の力に驚くほかありません。
しかし荒れ果てた城でなければ荒城の月の歌詞の意味に当てはまらないのでしょうか。
確かに絵姿としての状景には当てはまらないかもしれませんが、彼が本当に言いたかった無常ということを思うならば、荒れ果てていなくても移り変わりを表している城の歴史は、荒城の月の歌詞の真意をしっかりと語っているのです。
この観点から荒城の月を思うとき、各地にある色々の城は荒れ果てていてもいなくても、その歴史は無常を静かに語ってくれるのです。

詳細説明 目次

荒城の月 歌詞

作詞者の意図

「昔の光」の意味

歌詞の意味解説

意味解釈のまとめ

作詞作曲者とその経緯

荒城の月変奏曲演奏

原曲

一般向けに変曲された曲

変奏曲演奏

仏教とのつながり

「荒城の月」に見る仏教の心

土井晩翠の真意

荒城の月を思う城

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解説

荒城の月 歌詞 意味 解説

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