「荒城の月」作詞作曲者とその経緯

荒城の月は土井晩翠が作詞、瀧廉太郎が作曲
   

「荒城の月」作詞作曲者


荒城の月はあまりにも有名ですが、そもそもは、1898年東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の依頼で土井晩翠が作詞し、この詩に合う曲を公募されたところ、当時この学校の学生であった瀧廉太郎の曲が入選したことに始まります。
1901年(明治34年)、「中学唱歌」という本に発表されています。
2007年には文化庁と日本PTA協議会により、「日本の歌百選」に選定されています。

土井晩翠がこの詞を構想したのは宮城県仙台市の青葉城址とされています。
瀧廉太郎がこの曲を構想したのは大分県竹田市の岡城址とされています。

土井晩翠は1871年(明治4年)、富裕な質屋の長男として生まれ、家業に従事しながら英語の通信教育を受けました。
その後、帝国大学英文科に入ると、英語の他、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語を学んでいます。
作詞家として活躍し、校歌もたくさん作っています。
そのために東京音楽学校の依頼でこの「荒城の月」を作詞したのです。

瀧廉太郎は1879年(明治12年)生まれですが、瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄でした。
父は大蔵省から内務省に移り、大久保利通伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などに移動したため、廉太郎も生後間もなくから各地を回っています。
小学校卒業時にはピアノを演奏したと伝えられます。
15歳で東京音楽学校に入学し、1898年に本科を卒業して研究科に進みます。こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていきました。
しかし、1903年(明治36年自宅で死去してしまいました。わずか23歳没(満24歳)なのです。

土井晩翠と瀧廉太郎は一度会っただけです。それも偶然乗り合わせた船の上でです。
留学中だった瀧が、病気のため帰庫する途中でロンドンに寄港した際、土井がそのロンドンにいたため船の上で会うことができたのだそうです。
瀧は帰国後まもなく亡くなっていますので、これが最初で最後の出会いだったわけです。

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