伊藤博文

大日本帝国憲法の起草の中心となる人です
   

伊藤博文

伊藤博文は周防国出身。長州藩の松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷に参加。維新後は初代兵庫県知事を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる人物。

内閣総理大臣として、初代、第5代、第7代、第10代を務めています。
また初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任しました。

外交面においては、日清戦争後の日清講和条約の起草と調印により清國から朝鮮を独立させたことが大きな成果と言えます。

博文は天保12年、周防国熊毛郡束荷村の百姓、林十蔵の長男として生まれました。
家が貧しかったため、12歳ころ水井武兵衛の養子となり、更に伊藤弥右衛門の養子となって伊藤と改名しています。

上司として赴任してきた来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門したのですが、身分が低いため、塾外で立ち聞きしなければならなかったと言われています。
松蔭が安政の大獄で斬首された際、伊藤は、師の遺骸を引き取りに行くのですが、その時自分がしていた帯を遺体に巻いたそうです。

文久3年(1863年)には海外渡航をしています。イギリスに渡航するのですが、伊藤の荷物は間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったといわれます。
しかも水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の生活を強いられました。
米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、戦争回避に奔走しますが、下関戦争が勃発し、長州の砲台は徹底的に破壊されてしまいました。

このように苦労を重ねてきたのですが、明治元年に外国事務総裁である東久世通禧に認められ、神戸事件と堺事件の解決に奔走したことが出世の足掛かりとなりました。
明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事、初代工部卿など明治政府の要職を歴任することとなりました。
その後、英語力が決め手となって初代内閣総理大臣となり、以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになりました。

しかし、明治42年、ロシア蔵相と朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、暗殺されてしまいました。
11月に日比谷公園で国葬が営まれました。

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