大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち)は「維新の三傑」と称されます
   

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち)は、薩摩藩士でしたが政治家として活躍しました。明治維新において西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称されます。内閣制度発足前の明治政界のリーダーを務めました。

大久保 利通は、武術は得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたといわれます。
弘化3年、藩の記録所書役助として出仕するようになります。
安政4年、西郷とともに徒目付になっています。

幕末になり、武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明けています。
それを機に京都において薩摩藩と長州藩が出兵協定を結んでいます。
この盟約書は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っています。

その後、王政復古のクーデターを実行し、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張しています。
明治維新後、明治4年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊しています。
外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争が起きています。
これに対し、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させてしまいました。

明治6年には内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握り、学制や地租改正、徴兵令などを実施しました。
そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進するようになりました。

しかし、明治11年5月14日、石川県士族等により殺害されてしまいました。これを紀尾井坂の変と言います。
享年満47歳。
墓所は東京都港区の青山霊園にあります。

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