一般向けに変曲された「荒城の月」

山田耕筰変曲の現在の「荒城の月」
   

山田耕筰による「荒城の月」の変曲

山田耕筰は滝廉太郎作曲の荒城の月を移調もしていますが、一番大きな点は「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて#を取っていることです。
もう一つは全8小節からテンポを半分にして16小節に変更していることです。
瀧廉太郎は土井晩翠の歌詞に合わせて作曲したとき、イメージしたのはジプシーの哀愁を含めた曲だったのです。
しかし山田耕筰は日本の曲として一般に受け入れられやすくするためこのような変曲を行ったのです。
まさか荒城の月は変曲されているとは思いませんでしたが、その結果が現在歌われている「荒城の月」なのです。
瀧廉太郎作曲には間違いありませんが、山田耕筰によって変曲されているわけです。

山田耕筰
山田 耕筰(1886年生誕)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られている人です。
日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残し、日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めました。
また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動しています。
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家と言えます。
軍歌の作曲も多く手がけています。

山田耕筰は東京府東京市本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれた後、13歳のとき姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学しました。
ここで姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうけました。
1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業しています。
その後「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれました。

1950年、日本指揮者協会会長に就任し、放送文化賞を受賞。
1956年、文化勲章を受章。
北原白秋と共同して数多くの国民的歌謡、校歌等を創作していますし、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の入場行進曲の作曲者でもあります。

彼は名前を「耕作」から「耕筰」に改めています。
「山田耕作」と同姓同名の人物が多く、それゆえのトラブルが頻発していたのが、改名の理由の一つだと言われています。

TOP