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東京市歌

東京都になる前の東京市の市民歌。
高田耕甫作詞、山田耕筰作曲で、1923年に発表されています。懸賞公募による歌詞に山田耕筰が曲を付けました。

大正10年、東京市長であった後藤新平のもとに市の歌を作ることになりました。
そこでまず歌詞の募集を行いました。懸賞金を付けてです。
約1年間の募集の結果330通の作品が応募されました。

後藤新平の後任市長、永田秀次郎が中心となって数人で審査を行っていますがその中に山田耕筰も審査員として列席しています。
審査の結果、東京府職員の高田耕甫の作品が一等賞に選ばれました。
一等賞の賞金は500円でした。

このとき市の歌、市民歌とともに市としての童謡も同時に募集され、こちらも審査されていますが、一等賞は300円でした。

東京市の市民歌と童謡の作曲は審査員でもあった山田耕筰に依頼されました。
審査後わずか2ヶ月で日比谷公会堂で発表されました。

市長のもとで作られた歌ですが、実はその事業は『東京市民読本』を刊行するための一環だったのです。
歌は出来たのですが、関東大震災が起こったため東京市民読本の刊行は予定よりも遅れ、1924年となりました。

この読本の冒頭に、東京市歌の歌詞が載っています。

東京都の発表では、東京市歌の制定年は大正15年となっています。
大正15年の東京市政概要には、歌詞と共に東京市歌の楽譜も掲載されました。
これにより、市民に大きく広がりました。

昭和7年になってコロンビアからレコードが出ています。表題は「東京市民歌」でした。

東京市歌の作詞をした高田は昭和17年校長職をしていましたが亡くなりました。
また東京市は昭和18年東京都に変わり、「東京都歌」が作られましたが、以前の「東京市歌」は正式な都歌に次ぐものとして廃止はされず現在も残されています。