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荒城の月を思う城 首里城

首里城の歴史は荒城の月の真意、「無常」を語ってくれます
   

荒城の月を思う歴史と真意

琉球王朝時代の城です。石垣は残っており、いくつかの建物は復元されています。荒城の月を思うとき、この首里城の歴史は荒城の月の言いたかった真意、「無常」を語ってくれます。

首里城の歴史

首里城の創建年代は14世紀末のものと推定されていますが、明確にはなっていません。

琉球王国を成立させた尚巴志が、首里城を王家の居城としました。
首里城は戦争のためというよりも、首都における住居としての意味合いが強く、首里は首府として栄えました。

首里城は数度にわたり焼失しています。
消失する度に再建されましたが毎回木材の調達に苦労しました。
薩摩藩からの木材提供を受けたりしています。
再度の焼失を当て込んで、植林事業を行ったりもしていました。

1453年、王位争いに伴い大火となって、城内は完全に破壊されました。

首里城は、「外城」、「中城」、「内城」の三地区に分かれています。
外城には倉庫や厩があり、中城には200余人の警備兵が住んでいました。
内城には「閣」があり、宝物を保管する所や王が滞在する場所があり、侍女が100人以上いたと伝えられています。

1660年、二度目の焼失を起こし、再建には11年を要しています。

1709年、三度目の火災で、正殿や北殿などが焼失しました。
現在復元されている建築は、三度目の火災の後再建されたものを参考にされています。

1879年、沖縄県設置の後は、正殿など首里城の建物は政治を行う機能は無くなり、日本陸軍の軍営となりました。
その後は払い下げられ、首里区(後の首里市)の所管となって学校などとして利用されました。

王宮でなくなった首里城は急速に老朽化し、崩壊寸前の状態になりました。
既に多くの門は取り壊され、正殿も取り壊すことになっていましたが、伊東忠太、鎌倉芳太郎らの奔走により保存が決定されました。
昭和初期に正殿の改修工事が行われました。

1945年、アメリカ軍艦から砲撃を受け、焼失ました。
さらに激しい戦闘で、首里城やその城下町は破壊されました。琉球王国の宝物などの文化財も破壊されました。
日本軍南部撤退の際には、重傷兵約5000名が首里城で自決したといわれます。
宝物庫は奇跡的に焼失を免れましたが、収蔵されていた財宝は全て米軍に略奪されました。

昭和33年、守礼門が再建されたのをはじめとして、円覚寺門など再建が始まりました。
昭和47年、国の史跡に指定され、城の入り口の歓会門や周囲の城郭が再建されました。
昭和54年、琉球大学が首里城跡から移転し、首里城の本格的な復元がはじまりました。
平成4年、正殿やそこへ至る門などが再建され首里城公園となりました。
平成12年、世界遺産に登録されました。
平成18年、日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

荒城の月は土井晩翠の作詞によるものです。
土井晩翠は仏教を信仰しており、仏教の根本概念である「無常」ということをよく理解していました。
無常というのは、常が無いと書かれますが、常というのは、いつまでも変らないと言う意味ですので、無常は、いつまでも変らないものは無い、という意味になります。
言葉を変えれば、全てのものは移り変わるものであると言うことになります。

土井晩翠は、荒城の月の歌詞をもって、人々にこの「無常」を伝えたいと言う思いがあったのです。
この思いが、荒城の月の真意なのです。
荒城の月は、素晴らしい絵姿を描写していますが、それとともに、この世の中の全ては移り変わるものであることを知ってほしいと言う真意を持っているのです。
荒城の月の歌詞、四番をご覧ください。
「栄枯は移る」としてあります。
栄も枯も移り変わると言っているわけです。これは無常と同じことです。
仏教用語である「無常」のかわりに、「栄枯は移る」という言葉を使っていますが、彼の真意は、世の中は移り変わるものであることを知ってほしいと言う真意があったのです。

首里城は王宮として栄華を極めていましたが、焼失してしまいました。
時と共に変わっていったのです。
これが「無常」ということです。
荒城の月を思うとき、首里城の歴史は、荒城の月の真意、「無常」を語っているのです。

参照 首里城(Wikipedia)

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