荒城の月を思う城 山形城

復元が進み、二の丸跡が霞城公園となっています
   

山形城

山形城は、山形市霞城町にあった城で、霞城(かじょう)又は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれます。復元は進んでいますが、ほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されています。。

山形城は最上氏によって築城されたものです。
1356年斯波兼頼が羽州探題として山形に入ってきたのが始まりです。翌年初期の山形城が築城されました。

その後、出羽斯波氏は最上氏を名乗るようになり、最上氏本宗家の常駐する城になりました。
最上義光は城郭を拡大し三の丸を構築したり家臣団の屋敷を置いたりしました。
さらに城下町を整備していますが、慶長出羽合戦で勝利をおさめ、出羽57万石の本城となりました。

江戸時代になり、元和8年(1622年)に最上氏は他所に移され、代わりに鳥居忠政がここに入っています。
鳥居忠政により山形城は改修されているのですが、鳥居氏以後、たびたび藩主の変更が行われています。
そのたびに改修もなされてきましたが、山形藩を治める藩主の石高が減少してきました。

石高の減少により江戸中期以降は城の維持が困難になりはじめました。
幕末には本丸は更地となり、御殿は二の丸に移されました。
三の丸の西半分は田畑となっていました。

明治時代、ついに城が売りに出されてしまいました。
これを山形市が購入し、陸軍の駐屯地にしています。
歩兵隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は取り壊され、本丸は埋め立てられました。
三の丸の堀も埋め立てられ田畑として耕作する農地となっています。

戦後は二の丸は霞城公園になっています。
昭和61年、国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われました。

平成3年には、二の丸東大手門が復元されていますが、この門は大変大きく、江戸城の城門に匹敵するものです。
さらに平成18年、 本丸の正門につながっている大手橋が復元されました。

山形市の始まりとなった城であり、できるだけの復元がなされてきたのは大変喜ばしいことだと思います。
現在はかなり見ごたえのある城に蘇ってきています。

こうして歴史と言いますか、昔の姿を偲んでみますと、栄枯盛衰、諸行無常が思い出され、荒城の月の歌詞に詠われている城を想像してしまいます。

参照 山形城(Wikipedia)

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