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荒城の月を思う城 二本松城二本松城跡として国の史跡に指定されています |
二本松城二本松城は、福島県二本松市にあった城です。現在二本松城跡として国の史跡になっています。昭和57年には箕輪門と附櫓が復元され、その後平成7年には本丸が復元されています。 この城は二本松市街地の北にあり、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城で、平山城になります。 室町時代の初期、室町幕府より任ぜられた畠山高国が殿地が岡に住み、地名を二本松と改称しました。 畠山氏7代目当主の二本松満泰が1414年ころ二本松城を築きました。 以後、二本松氏は陸奥に定着していましたが、戦国時代になって伊達政宗の攻撃を受けました。 政宗は二本松城を攻めましたが、守備側は籠城し、城は政宗の猛攻によく耐えました。 援軍の佐竹義重らが加勢に来てくれたこともあり、政宗の攻撃を撃退しています。 しかし1586年、政宗が再度二本松城へ進軍しました。 この時は内通者が出たため、二本松城は開城することとなり、ここに二本松氏は滅亡してしまいました。 政宗は城代を置いて二本松城を統治していましたが、1591年になって、政宗が豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されたため、この二本松城は会津若松城主である蒲生氏郷の城となりました。 その後幾度となく城主が交代していますが、1643年、丹羽長秀の孫となる光重が10万700石で入城しました。 光重は二本松藩の偉容を備えるため大改修を行っています。 このとき本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれました。 以後、明治維新まで丹羽氏の居城となりました。 1868年の戊辰戦争において、二本松藩は新政府軍と戦いましたが、隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、落城しました。 この戦において城の建物の多くが焼失してしまいました。 明治5年(1872年)、廃城令によって残っていたすべての建物も壊されてしまいました。 近年、昭和57年になって、箕輪門と附櫓が復元されました。 平成7年には本丸の復元がなされ、天守台や本丸石垣が整備されています。 現在、城跡は県立霞ヶ城公園として整備され、「二本松少年隊群像」もあります。 しかしこうして歴史を見てみますと、その時その時、人々は一生懸命生きてきたのでしょうが、時とともに変わってきています。 荒城の月の歌詞一番と、歌詞二番には「昔の光今いずこ」とされています。 また歌詞四番では「栄枯は移る」とされています。 この荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものですが、土井晩翠は仏教でいう「無常」をよく理解していたのではないでしょうか。 無常とは世の中全て変わらないものは無いと言う意味ですから、この二本松城も変わらざるを得なかったのでしょう。 この城の歴史を見ていますと、荒城の月の歌詞を思ってしまうのです。 参照 二本松城(Wikipedia)
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