荒城の月を思う城 若松城

会津若松市の城。復元され、荒城の月の歌詞が思われます。
   

若松城

若松城は、会津若松市あった城です。蘆名氏(あしなし)7代当主の蘆名直盛が1384年東黒川館を造ったのが若松城のはじまりとされます。現在は天守が復元され、荒城の月の歌詞を思うような姿になっています。

東黒川館はおそくとも15世紀半ばまでには黒川城と呼ばれ、その城下町が出来ていました。

伊達政宗は蘆名氏と連年戦いを繰り返し、蘆名義広を攻め、ついに蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にしています。
しかし、政宗は1590年に秀吉に臣従した際、会津を召し上げられています。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷です。
蒲生氏郷は大大名にふさわしい城にしようと近世城郭に改造し、城下町の整備も進めました。
氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改めています。
「若松」の名は、出身地の日野城の参道周辺にあった「若松の杜」に由来しています。
領土であったところを「松坂」といいますが、この「松」という一文字もこの「若松の杜」の松に由来すると言われます。

1593年、望楼型7重の天守が完成し、名を「鶴ヶ城」に改めました。
近年の発掘調査で鬼瓦の一部に金箔が貼られていたことが分かっています。

1598年、氏郷の子・秀行は家中騒動が原因で92万石から18万石に下げられ、上杉景勝が120万石で入ってきました。
しかし徳川家康は関ヶ原の合戦で西軍についた景勝を30万石に下げ、出羽国に追いやっています。

その後何回も城主が変わっていますが、1643年、徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入り、以後、明治維新まで会津松平家の居城となりました。

1868年、会津戦争にて、会津勢の守る若松城は1か月の間持ちこたえましたが、その後開城されました。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたままとなり、ついに壊される運命となりました。

昭和5年に旧史蹟名勝天然紀念物保存法の規定により国の史跡に仮指定されています。
昭和9年には文部省によって国の史跡に本指定されました。

現在の復元天守棟上には鯱があげられています。
この鯱は、ハザマ会長より寄贈されたものです。鯱の全身の鱗は銀箔でできており、牙は金製です。
さらに瞳の中心に2カラットのダイヤモンド入っています。

現在、立派に復元され、見ごたえがあります。
しかしその歴史を振り返ってみた時、何というか、寂しさのようなものを感じます。
その時代その時代に、人々は真剣に取り組んできたのでしょうが、末永く続くことは出来ていません。
荒城の月の歌詞にいう、「昔の光いまいずこ」です。
土井晩翠による荒城の月の歌詞ですが、見事と言うしかありません。
本当にこの歌詞は栄枯盛衰を心の中に感じさせる力を持っているようです。

参照 若松城(Wikipedia)

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