荒城の月を思う城 水戸城

水戸徳川家の居城でした。弘道館は国の特別史跡です。
   

水戸城

水戸城は、水戸市にあった城で、江戸時代には水戸徳川家の居城でした。茨城県指定史跡。三の丸にある弘道館は国の特別史跡です。

水戸城の始まりは非常に昔で、平安時代末期とされています。
馬場資幹により1190年ころ築かれたようです。そのため当時は馬場城と呼ばれていました。

1416年上杉禅秀の乱で、足利幕府側の江戸通房に敗れました。
江戸氏が新城主となり、以後7代、約170年間その支配は続きました。
以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立しています。

佐竹義重・義宣父子は秀吉に味方しました。この結果、佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられ馬場城を攻めました。
そして、1594年江戸氏を敗走させました。

佐竹義宣は水戸城を重要と考え、ここに本拠を移しました。
義宣は入城するとすぐに城の大改修に着手し、城の名前も馬場城から水戸城に改めました。

関ヶ原の戦いでは、佐竹義宣は曖昧な態度で終始したため、徳川家康によって水戸から追放されました。
家康は、やはりこの地は奥州を睨む好地と考え、五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させました。
1603年には信吉に代わって、十男の徳川頼宣を20万石で入城させました。

頼宣には50万石を与え、十一男の徳川頼房が入城して以降、廃城となるまで水戸徳川家の居城となっています。
頼房はこの城と城下町をともに拡充し、二の丸に住むようにしていました。
天守は構えず、内部は5階建てですか、飾りの少ない三階櫓を作りました。
また、櫓や多聞も少なくし、塀を多く使っていました。
この質素さは水戸徳川家の家風を示しているのです。

明治元年には水戸城下で戦闘が行われました。
弘道館に立て籠もる諸生党と天狗党が戦ったのですが、この際に城内の多くの建物が焼失しています。

明治4年、廃藩置県により廃城となり、昭和20年の水戸空襲により三階櫓を焼失しています。
昭和27年には弘道館が国の特別史跡を受けています。
昭和39年に、弘道館正庁、正門などが国の重要文化財に指定されました。
その後、土塁と空堀が茨城県の史跡に指定され、薬医門が茨城県の指定建造物になっています。

現在、弘道館は有料ですがその他の敷地は無料で見て回ることが出来ます。

質素な作りだとはされていますが、徳川御三家の一つであったわけであり、国の重要文化財に指定されるほど立派なものだったのです。
最初に築城されてから、幾度もの戦いがあり、徳川になってようやく落ち着いたかと思えば水戸空襲で三階櫓も焼失しています。

この城は、世の中は常に移り変わるのだと、まざまざと示しているのです。
このことを、荒城の月の歌詞の中で、栄枯は移る世の姿と表しています。
この歌詞を作ったのは土井晩翠ですが、世の無常を歌いこんでいるのです。
荒城の月の歌詞は、このような城の運命を物語っているのではないでしょうか。
荒れ果てた城の跡に月が昇ってくる。
この月は今も昔も変わらないけれども、世の中は常に移り変わるものだと言っているのです。
土井晩翠作詞である、荒城の月の歌詞の意味は、噛みしめればかみしめるほど、味わい深いものだと私は感じます。

参照 水戸城(Wikipedia)

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