荒城の月を思う城 足利氏宅跡

「足利氏宅跡」は日本100名城の一つで、「鑁阿寺」として国の史跡に指定。
   

足利氏宅跡 鑁阿寺(ばんなじ)

「足利氏宅跡」は日本100名城の一つで、「鑁阿寺」(ばんなじ)として国の史跡に指定されています。本堂は国宝です。

12世紀の半ば、足利氏の祖である源義康が、現在の栃木県足利市家富町に足利氏館を構えたのが始まりです。
鑁阿寺(ばんなじ)は、元、足利氏の館であり、四方に門があり、周りには土塁と堀がめぐらされています。
寺院でありながら、鎌倉時代前後の武士の館としての成り立ちが残されています。

1196年、自宅である居館に大日如来を祀った持仏堂と堀内御堂を建てました。
足利義兼は戒名を鑁阿と言いました。
1234年、足利義氏は伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。

南北朝時代には鶴岡八幡宮に支配されることになりました。

大正11年、「足利氏宅跡」として国の史跡となっています。
明治41年には、鑁阿寺本堂が、現在の重要文化財に相当する特別保護建造物に指定されました。
昭和25年には、文化財保護法により、本堂は重要文化財になっています。

昭和26年、真言宗豊山派から大日派に独立しました。

平成18年、「足利氏館」として日本100名城の一つに選定されています。
平成25年、本堂が国宝に指定されました。

この本堂は正安元年(1299年)の建てられたものですが、1407 - 1432年にかけて大規模な改造が行われています。
この時には柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付け加えています。
禅宗様ですが、組入天井、板敷の床などは和様の要素も持っています。
密教寺院としての禅宗様仏堂の初期の例として貴重であり、また関東地方における禅宗様の古例としても貴重とされています。

土塁と塀で囲まれた寺、これは最初から寺として作られたのではなく、居住館を寺にしていったものと私は思います。
屋敷内に寺を作ってしまったわけです。
戦いにおいて焼失したり壊されたわけではありませんが、一時期には鶴岡八幡宮に支配されるときが有ったり、大日派に独立するなど状況の移り変わりもありました。
荒城の月の歌詞では「昔の光今いずこ」など、栄枯盛衰を歌っていますが、荒城の月の歌詞を作った土井晩翠は、この中で「栄枯は移る」とも言っています。
建物自体も時を経れば朽ちても来ます。
この鑁阿寺(ばんなじ)に立って、荒城の月を思うことが出来るかどうかは分かりませんが、世の「無常」を感じることは出来るのではないかと思います。

参照 足利氏宅跡 鑁阿寺(ばんなじ)(Wikipedia)

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