荒城の月を思う城 箕輪城

高崎市にあった城で、国の史跡となり城門が復元されています
   

箕輪城

箕輪城(みのわじょう)は、高崎市にあった城で、 戦国時代中期長野業尚によって築かれました。
国の史跡に指定され、城門が復元されています。

1512年、当地を支配する長野業尚によって築かれた城です。
しかし、1526年、業尚の子の信業によって築かれた城だと言う説もあります。

戦国時代とはいえ、あちこちで戦いばかり起こっていました。
このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得ることができたため大きく前進することが出来ました。
箕輪衆と呼ばれる在郷の武士団を統一し、「名君」と慕われ、長野氏全盛時代を築きました。

城主業正の時には、武田信玄の侵略が繰り返されましたが、よく退けています。

業正が没すると14歳であった業盛が家督を継ぎました。
業正は「城を枕に討ち死にすべし」と伝え、その死は永く隠されていました。

しかし、業正の死を知るや信玄は再び侵攻を開始し、近隣の城を落とし、調略を仕掛け寝返らせて行きました。
次第に箕輪城は孤立し、1566年武田軍は箕輪城を落城させました。
業盛は自刃して果て、箕輪城は武田氏の拠点となって行きました。

1590年、豊臣秀吉の命により、前田利家等による攻撃によって箕輪城は開城するに至りました。
この年、徳川家康が関東に入り、12万石をもって井伊直政に箕輪城が与えられました。
直政は箕輪城を近代的な城郭に改造しましたが、1598年、高崎城に移つされました。
このため箕輪城は廃城となって、80年余り存続したこの城の歴史は終わりとなりました。

昭和62年、国の史跡に指定されました。
平成18年には日本100名城に選定されています。

この箕輪城の歴史を見てみますと、戦国時代とはいえ、凄まじい歴史になっています。
常に死守する覚悟が必要であったのではないかと思います。
いくら権勢を誇り、栄華を極めても、やがてはその姿は無くなります。
荒城の月の歌詞に「栄枯は移る」とされていますが、まさにこの箕輪城もその通りです。
盛者必衰であり、無常です。
土井晩翠がこの荒城の月の歌詞を考えたのですが、この無常を知り尽くしていたのではないでしょうか。
単に思い付きでこの歌詞を作りだしたわけではないと思います。
幅広く、深い知識と、自分自身の心の中から湧き出してくる思いが、この荒城の月の歌詞となって出来上がってきたのでしょう。

参照 箕輪城(Wikipedia)

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