荒城の月を思う城 佐倉城

佐倉市城内町にあった城で、天文年間、鹿島親幹が築城しています
   

佐倉城

佐倉城は、佐倉市城内町にあった城で、天文年間、千葉親胤の命により、鹿島親幹が築城しました。

戦国時代、千葉親胤が築城を開始しましたが、親胤が暗殺されたために工事は中止されました。
その後、千葉邦胤の代にも工事をはじめましたが、再び邦胤も暗殺されたため、城は完成しませんでした。
この築城予定地は鹿島親幹を思い、「鹿島台」と呼ばれるようになりました。

1610年になって、徳川家康の命を受けた土井利勝が築城を再開し、ついに佐倉城が完成しました。

この城は石垣を使っておらず、干拓以前の広い印旛沼を外堀とし、御三階櫓と言われる三重櫓を天守の代わりに使っていました。

江戸時代には佐倉藩の藩庁が置かれました。

明治維新の廃城令で建物のほとんどが撤去されました。
その後、帝国陸軍歩兵第2連隊の駐屯地となっています。

昭和37年、市の史跡に指定されています。
現在、城の跡地は佐倉城址公園として一般開放されています。

昔の城の建物は少ないですが、その跡地、本丸や二の丸、三の丸の跡は残っています。
また、外縁の椎木曲輪などの多くの郭の形状がはっきりと残っています。
これはとても広大であり良好な状態で残っています。
さらに、馬出空堀なども良好に残っています。
佐倉城の建物としては現在、門が一つだけ保存されています。この門は、一度城外へ移築されていたものを戻したのではないかと言われています。
平成18年、 日本100名城に選定されました。
建物としては、現在、佐倉城址公園管理センターがあります。

この城跡は、ただただ広い堀に囲まれた平地です。
昔はここにたくさんの建物があったに違いありません。
しかし今は何もないのです。
「昔の光今いずこ」、荒城の月の歌詞です。
荒城の月の曲は瀧廉太郎の作曲ですが、歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。
土井晩翠が「荒城月」としてこの歌詞を作り、後で瀧廉太郎が曲を付けたのです。
荒城の月の歌詞は、荒れ果てた昔の城跡を月が照らし出しているような絵を見ているようです。
非常に綺麗に書かれた詩です。
しかし土井晩翠はそのような情景だけを言いたかったのではないと思います。
この佐倉城には石垣がありませんから荒城の月の歌詞に詠われている城ではないと決めつけるのは早計だと考えます。
土井晩翠の言いたかったことは、そのような「絵姿」ではなく、世の中は移り変わるものだと言うことをしみじみと言いたかったのだと思います。
佐倉城の堀に囲まれた平地を見て、歴史を思えば荒城の月の歌詞の意味はそのまま当てはまるのです。
栄枯は移るであり、昔の光今いずこです。
これは仏教でいう「無常」にほかなりません。
世の中は常に変わらざるを得ないのです。

参照 佐倉城(Wikipedia)

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