荒城の月を思う城 江戸城

太田道灌が築城し、後に徳川家康が入りました。現在は皇居となっています。
   

江戸城

最初に住んでいたのは江戸氏ですが、太田道灌が江戸城を築城し、後に徳川家康が入りました。現在は皇居となっています。

現在の東京である江戸に最初に根拠地を置いたのは江戸重継で、鎌倉時代初期まで江戸氏の居館がありました。
江戸氏が没落した後、太田道灌が江戸城として築城して一応の完成をさせました。
このころの江戸城は、子城、中城、外城の三重構造で、周囲に切岸や水堀を巡らせて門や橋で結んでいたと考えられます。

道灌の後、江戸城は上杉氏のものとなり、上杉朝良が隠居城として用いていました。
その後、北条氏綱の支配下に入っています。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの時開城しています。
そこへ、関八州を与えられた徳川家康が駿府から移って来て、江戸に入りました。

家康が来てみると、江戸城は築城から時を経ていたこともあり、荒れ果てていました。
大手門の横には粗末な家並みが100軒ほど建っており、城の東は海水が入り込むような湿地だったと言います。
城の西南側はススキばかりで見渡す限りの野原でした。

このように、家康が入った時の江戸城は小規模であり、時を経ていたために荒廃していたのです。
家康は江戸に来たわけですが、来たくて来たのではなく、来させられたと言う状態でしたから、徳川時代の徳川とは違い、秀吉の一家臣だったわけです。

その後、1603年、家康が江戸を開いてからは天下の大名たちに号令して大普請による江戸城の拡張に着手しました。
神田山を崩して日比谷入江を埋め立て、外濠川の工事も行っています。
外郭石壁は細川忠興や前田利常、加藤清正、福島正則などたくさんの大名が行っています。
天守台は黒田長政の築造です。

実に半世紀にわたる大工事も、1660年、神田川御茶ノ水の拡幅工事をもってようやく終了しました。

明治元年、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、東京城に改名されました。
明治2年、皇城と称されました。

明治6年皇居となっていた西ノ丸御殿が焼失しましたが、明治21年、明治宮殿の完成によって宮城と称されるようになりました。

昭和20年、空襲で大手門が焼失しましたが、昭和42年復元されています。
昭和23年、皇居と呼ばれるようになりました。
平成18年、日本100名城に選定されています。

家康の作った江戸城が現在の皇居となっているわけですが、歴史を見てみると簡単な話ではないことがわかります。
秀吉の後、家康がこの江戸城を拡充するために全国の大名たちに普請を命じています。
このころには天下統一がなされ、もはや戦国時代ではないにも関わらず大規模な工事をやらせたのは、各大名にお金を使わせ、戦争の準備をさせないためであったとも言われています。
現在の皇居は荒城と言えるのでしょうか。
確かに天守はありませんが、これは焼失後再建しなかったということであって、戦いに負けて無くなったのではありません。
天災や空襲で焼けた建物も多くありますが、立派な建物がたくさん残っています。
荒城の月の歌詞に言われる、昔の光今いずこという感じはあまりしないと思います。
でもそれは見た感じの「情景」であり、この城にまつわる歴史を感じ取ってはいないからです。
江戸氏や太田道灌のころの必死の攻防もあったのです。
家康もこの地に来たくて来たわけではありません。
このようなことを考えてみますと、荒城の月の歌詞そのままではありませんか。
絵姿ではなく、土井晩翠の言いたかったことは、「無常」なのです。
世の中は移り変わらざるを得ないものなのだと言っているのです。
そういう意味で、この江戸城も荒城の月の歌詞の意味に当てはまるものだと私は解釈しています。

参照 江戸城(Wikipedia)

TOP 前頁