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荒城の月を思う城 八王子城八王子市の深沢山にあった北条氏照の築いた城。 |
八王子城八王子城は、八王子市に存在していた北条氏照の築いた城です。深沢山に築城され軍事上の拠点となっていました。現在は築城当時の形態を想定して再現されています。城下町には、武家屋敷や刀剣鍛冶職人の鍛冶屋村のほか、八日市、横山、八幡の3つの宿場がありました。 また出城として、からめての防衛線を作るため、浄福寺城、小田野城、初沢城などがありました。 北条氏照は北条氏康の三男で、1571年頃より築城を始め、完成後はここを本拠としました。 氏照は、その前は滝山城に居ましたが、武田信玄に攻められた際、滝山城の防衛能力の限界を感じたため、八王子城に本拠を移したのです。 織田信長の安土城を参考にして、石垣を使った山城の形式に構築したと言われます。 移る前の滝山城は、広くて、多くの角馬出や内枡形を備え、立派な平山城だったため、この八王子城に移ったことは氏照は時代に逆行しているのではないかと影では言われました。 しかし、ここに作った八王子城は、山城のような尾根と堀切を巧みに使った防御方式に加え、敵に対して四方八方から矢を射かけられる仕組みになっていました。 1590年、八王子城は前田利家らの部隊1万5千人に攻められ城は陥落しました。 氏照正室や比佐を初めとする婦女子は自刃したり御主殿の滝に身を投げたりしました。 滝は血に染まったと言い伝えられています。 城主の北条氏照は切腹して果てています。 その後、徳川家康によって八王子城は廃城となりました。 その後は徳川氏の直轄領となり、明治以降は国有林なっていましたので、落城当時のままの状態がよく保存されていました。 発掘調査では、礎石を多く使った建物の跡や水路の跡など多くの遺物が見つかっています。 昭和26年、国の史跡に指定されています。 その後発掘調査が進み、御主殿跡付近の石垣や虎口、曳橋などが復元されました。 敵に攻められて落城すると言うことは、想像を絶する悲惨な状態だったと思います。 戦いを決めた城主は自己責任かもしれませんが、その家族たちはとても気の毒なことです。 沖縄のひめゆりの塔を思い出します。 多くの若い女性たちが自らの命を絶ったと言われます。 戦いとはなんとむごいことでしょう。 現在この八王子城址の、御主殿跡へ通じる虎口と冠木門は石段と石垣が修復され、当時の姿を偲ばせてくれます。 ここに立って、夜、月をみれば荒城の月の歌詞を思うことが出来るでしょう。 しかし土井晩翠の言いたかったことはこの絵姿としての情景だけではなかったように思います。 荒城の月の歌詞の意味としては、そのまま受け取れば確かに綺麗な絵姿をしていますが、もっと深いところを示しています。 私は、仏教でいう「無常」を指し示していると解釈しています。 婦女子の話は「無情」ですが、意味の違う「無常」です。 土井晩翠の言いたかったことは、世の中は移り変わるものであり、どこにもそのままでいられるものは無いと言うことを歌詞の中に入り込ませていると思います。 作曲した瀧廉太郎もすごい力量を持っておられたと思いますが、土井晩翠の詩を作る力量も人並みでないことが伺えます。 荒城の月の歌詞の意味は、四番にまとめられています。 月の光はいつまでたっても変わらないけれども、それは、世の中は移り変わるものだと知らせるために、いつまでも変わらず光っていてくれるのではないかと表現しています。 荒城の月の歌詞四番は 天上影は変わらねど、栄枯は移る世の姿、映さんとてか今もなお、ああ荒城の夜半の月 です。 参照 八王子城(Wikipedia)
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