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荒城の月を思う城 小田原城小田原市にあった北条氏の城。城跡は国の史跡に指定されています。 |
小田原城小田原城は、戦国時代から小田原市にあった城。北条氏の本拠地。城跡は現在国の史跡に指定されています。小田原城の始まりは古く、平安時代後期にはすでに築城され、相模の国の豪族である小早川遠平の館であったと言われます。 その後何人も城主は交代していますが、小田原城を拠点として活動したのは、北条氏綱が最初であったとされます。 更にその後、北条氏政、北条氏直父子が入り、戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となりました。 小田原城は軍事的にも重要な場所であり、だれもが攻略したかったのですが、難攻不落でなかなか奪い取ることは出来ませんでした。 1561年には上杉謙信が越後から侵攻しています。 軍記によりますと、11万3千の大軍勢で小田原城を包囲しました。 しかし、1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切った言われれています。 1568年、武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始しましたが、北条氏は上杉氏と同盟を結び武田方に対抗しました。 信玄は信玄で北関東の国衆と同盟し、北条領国へ侵攻しました。 しかしこの戦いは、戦力を見せつけることが目的であったとも考えられています。 それは、後に北条氏は武田の駿河領有を承認しているからです。 北条氏の小田原城改築は小規模ですが、2回あったと考えられています。 最初は北条早雲が小田原城を得た直後で、1498年、大地震の被害を受け、さらにこれに乗じて攻められたことから改築が行われたと見られています。 あとの1回は、この頃に何回も襲ってくる上杉氏・武田氏の侵攻に対し、備えを十分するためだったと考えられています。 1590年豊臣秀吉の天下統一は、この関東の小田原城を残すのみとなりました。 秀吉は、関東の大名らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃しました。 この戦いにおいて秀吉は圧倒的な物力をもって囲みながら、別働隊によって北条氏の出城を次々撃破し、篭城している北条氏を攻めたてました。 篭城戦は3カ月に及びましたが、小田原城はついに開城しほとんど無血で終了しました。 今でも残っている言葉に「小田原評定」という言葉がありますが、これはこの籠城中に城内で議論が行われ、和議とするか抗戦継続とするか意見が分かれ、なかなか結論が出なかったためにこのように言われるようになったのです。 小田原城の開城後、北条氏の領土は徳川家康に与えられました。 江戸城にいる家康は腹心大久保忠世を小田原城主にしました。 小田原城は大きな城郭でしたが、大久保氏が入ってから規模を縮小させ、以後、明治時代まで大久保氏が居城しました。 一方北条氏は、1万余石を治める外様大名として明治に至っています。 明治3年、小田原城の建物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。 明治42年、唯一残っていた二の丸平櫓の修築工事が行われています。 昭和25年、関東大震災で崩壊した天守台の修理が行われ、小田原城址公園として整備されています。 この小田原城の天守は復元されています。 ここに上る月を見て、荒城の月の歌詞の意味するところを思いますと、荒れ果てた城の感じはしなく、意味が違うようにも思われます。 石垣にはツタが這い、松には風が当たってひゅうひゅう言う寂しい城跡に夜中の月が昇っていると言う、荒城の月の歌詞は絵姿を意味しています。 しかし本当に土井晩翠はその姿を言いたかったのでしょうか。 私は、荒城の月の歌詞が意味するところは、もう少し深いところにあるように思えます。 確かにこの歌詞を表面的に解釈すればその通りですが、仏教でいう「無常」を意味しているものと思われます。 作詞家というのは並大抵の知識の持ち主ではありません。広く深く色々のことを知っており、いかにしたら自分の思いが伝えられるか、練りに練ってその歌詞を作り上げるものだと思います。 単に荒れ城に行って、月を見て、すらすらと書き下ろすことが出来たとは思えないのです。 土井晩翠の実家は菩提寺の檀家総代を務めていました。晩翠は最初のうちは仏教にあまり関心を示さなかったようですが、後に仏教を深く信仰するようになっています。 このことから推定しますと、荒城の月の歌詞が意味するところは、絵姿ではなく、世の中は移り変わり行くものだと言うことを練りこんでいるのだと解釈することが出来ます。 絵としてではなく、意味として考えてみて頂ければ恐らくご理解いただけるのではないかと思います。 昔の光は今は無い、栄枯は移る、と言い切っています。 小田原城もまさにそうではないでしょうか。 北条氏、家康、明治、そして現在。次々と移り変わっています。 小田原城を照らしている月は、この移り変わると言うことを人々に伝えようとしている。これが土井晩翠の言いたかった荒城の月の歌詞の意味するところだと思います。 荒城の月の歌詞を思う城の一つとして小田原城を挙げることができると私は解釈しています。 参照 小田原城(Wikipedia)
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