荒城の月を思う城 武田神社

甲府市にある神社。武田氏館跡地に建てられ、武田信玄を祭神としています。
   

武田神社

武田神社は、甲府市にある神社。戦国時代に作られた武田氏館である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地に建てられた神社で、武田信玄を祭神としています。

戦国時代の1519年に武田信虎の居館として武田氏館が築かれ、家臣たちが集って武田城下町が形成されました。
武田氏館は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とも言われます。

武田氏館が築かれた後、信虎・晴信・勝頼の三代にわたって武田領の中心として繁栄しました。

1582年、武田氏滅亡後も政治としての中心地を担いました。
江戸時代に武田氏館は破却されています。館の正確な破却時期は分かっていませんが、1600年ころと推定されています。
武田氏館が無くなったため、武田城の城下町は甲府城下町と一体になって行きました。
江戸時代、武田氏館跡は「古城」とか「御屋形跡」と呼ばれ、武田氏時代を偲ぶ名所となっていましたが、明治になってからは史跡保存の運動が始まっています。

1880年、山梨県では明治天皇の山梨県巡幸が行われました。
この時、巡幸御用掛から武田信玄ゆかりの社寺保存のために資金が渡されれています。
その意図は山梨県民に対し、武田信玄に対する心情を回復し、新政府の尊厳を保つためであったのだろうと言われています。

山梨県では古城地など官有地の公有地化を進めましたが霊社建設に反対する意見もあり、躑躅ヶ崎館は県立躑躅ヶ崎公園となりました。
明治37年の日露戦争後、軍神を祀ることが奨励され、武田信玄を祀った神社を作ろうとの気運が高まってきました。

大正天皇の即位記念の時、山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立され、大正8年には社殿が竣工しました。
宝物殿には、太刀や信玄公の軍扇、武田二十四将図等貴重な品々が収められています。

入口には横幅の大きな石段があり、その奥には太鼓橋があります。
太鼓橋を渡ると鳥居があります。
その鳥居の奥に、立派な拝殿がどっしりと構えています。

武田信玄の跡地にその信玄を祀った神社が作られているわけですが、荒城の月とどういう関係があるのか疑問に思われる方があるかもしれません。
私がこのサイトで、「荒城の月の歌詞を思う城 武田神社」として取り上げている思いをご説明します。
荒城の月の歌詞を直接的に解釈しますと、荒れ果てた城の石垣にツタが絡みつき、松の枝がひゅうひゅういっている寂しげな様子が目に浮かぶことと思います。
荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠です。
確かに土井晩翠は荒城の月の歌詞においてそのように表現しています。
しかし私はその歌詞の中にはもっと深い意味があると思います。
歌詞一番、二番では昔の光今いずこと言っており、歌詞四番では栄枯は移る世の姿と言っています。
荒れ果てた城の上に月が出ているのを見ている情景を表しているのですが、土井晩翠の本当に言いたかったのはその絵姿ではなく、「栄枯は移る」だと思います。
これは仏教でいう「無常」にほかなりません。
天下を揺り動かした武田信玄でも、その居住地の館は無くなりました。
常であり続けることはでき無いのです。常は無い、無常です。
武田信玄の跡地にその信玄を祀った神社が作られたこと、これは無常の結果です。
土井晩翠は荒城の月の歌詞に「世の中は全てのものが移り変わるのだ」いう意味を含めているわけです。

参照 武田神社(Wikipedia)

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