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荒城の月を思う城 甲府城甲府市にあった城で、舞鶴城とも言われます。忠頼の死後、尼寺になりました |
甲府城甲府城は、甲府市にあった城で、舞鶴城とも言われます。一条忠頼の居館があったといわれ、忠頼の死後、夫人が開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となっています。平安時代後期、甲斐国山梨郡板垣郷の一条小山に甲府城が築城されたとも言われます。 しかし、甲府城の築城主は徳川家康であるとする説は古くからあります。 江戸後期の『甲斐国志』では築城主は家康であり、その年代は天正13年であると記されています。 また、昭和44年の『甲府城総合調査報告書』には、築城主は家康、年代は天正11年とされています。 天正11年築城説は、家康は家臣の平岩に対して書状を出し、一条小山に築城の準備を命じていることを根拠としています。 同時に「石垣積」の技術を持つ職人衆を派遣しています。 石垣積は西国系の技術で、甲府城で初めて用いられています。 甲府城の築城は豊臣の時代に本格化しています。 加藤光泰時代には天正19年の書状などの史料が見られます。甲府城築城を行い、城内の殿舎の建設も開始されています。 光泰時代に甲府城の本丸や天守曲輪、稲荷曲輪などが竣工したと考えられています。 家康の九男である徳川義直が、1603年(慶長8年)城主となっています。 1616年には徳川忠長の支城となっています。 1661年には、徳川綱重が城主。 1678年には、徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となっています。 1727年には、甲府城で大火が発生。 1734年には、城内に盗賊が侵入し御金蔵事件が発生しています。 1866年、 勤番制から城代に変更。 1868年、明治維新となり、板垣退助らが無血入城しています。 1873年(明治6年)、廃城となりました。 明治13年、明治天皇の山梨県巡幸が実施され、甲府城跡の天守台をご覧になっています。 昭和13年になって、天守台跡に「明治天皇御登臨之址」が建設されています。 平成18年日本100名城に選定され、平成25年復元が完了し公開されています。 復元されたものは、稲荷櫓、鍛冶曲輪門、内松陰門、鉄門、謝恩碑、天守台などです。 天守台からは御坂山地や赤石山脈などがよく見えます。 天守台としての石垣があることから、天守閣が存在したと考えられていますが、その図面などの資料が発見されず、復元されないままとなっています。 この甲府城の復元した姿を見ていますと、荒れ果てた城というよりも、当時の様子に近い感じがしてきます。 荒城の月の歌詞に詠われている「ああ荒城の夜半の月」という風情はどうも感じにくい気がします。 しかし、土井晩翠はこの甲府城の姿も、荒城の月の歌詞の意味の中にきっちりと歌いこんでいると私は解釈できます。 土井晩翠は仏教を信仰する人であり、多彩な知識者でした。 荒城の月の歌詞四番に、「栄枯は移る世の姿」と言っています。 このことが彼の本当に言いたかったことなのだと私は思います。 荒城の月の歌詞を素直に見た時、荒れた城を思ってしまいますが、それはこの「世の中は変わる」ということを表すための技術であり、表現方法なのです。 単に荒れ城の風情を言っているのではありません。 仏教でいう「無常」を知ってもらいたいと考え、荒城の月の歌詞としてその意味を歌いこんでいるのだと私は解釈しています。 参照 甲府城(Wikipedia)
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