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荒城の月を思う城 松代城川中島の合戦で重要拠点となった長野市の城跡 |
松代城松代城は、長野市ある城跡。元は海津城と呼ばれていました。川中島の合戦で重要拠点となっており、今は国の史跡に指定されています。松代城は以前には海津城と呼ばれていました。 千曲川河畔の海津城は川中島地域の武田氏における重要な拠点として整備され、この城には小山田虎満、市川等長、原与惣左衛門が配置されたといわれます。 海津城の築城は1559年とされています。 海津城は上杉氏への最前線にあります。 561年、上杉氏が川中島へ侵攻すると、武田家臣は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、第四次川中島の戦いが行われました。 また海津城は川中島四郡の支配下にあり、城代である春日虎綱は郡代的特権を持っていました。 天正10年、武田氏滅亡の後、織田氏家臣である森長可の居城となり、武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めて海津城下に住まわせました。 本能寺の変の後、長可が退却し、海津城は無人のままとなりました。 以後上杉氏の支配となりましたが、その後は豊臣秀吉の地となり、城主として田丸直昌が入っています。 1600年、海津城から待城(まつしろ)へと改名されました。 1616年、領主忠昌ににより、待城から松城へと改名されました。 1711年、幕命により今度は松代城と名付けられました。 1717年、火災により本丸、二の丸、三の丸が焼失しましたが、翌年再建されています。 その後、新堀が造られたり、土手が築かれたりしたいます。 1847年、善光寺地震により、本丸や塀、櫓、番所などが大破しています。 1853年、花の丸御殿が焼失しましたが再建されています。 1864年、城外御殿として新御殿が建てられ、真田邸と言われました。 明治5年、廃城となり、跡地は払い下げられ藩士の畑になってしまいました。 明治37年、藩士の土地を真田幸正が買い取り、跡地を遊園地として開放しました。 大正14年には海津城址公園内に噴水や番所を建設し、管理人を常駐させるなど維持管理が行われるようになりました。 昭和56年には本丸や新御殿が国の史跡に指定されました。 平成16年、太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されています。 平成18年、日本100名城に選定されています。 川中島の合戦は良く知られていますが、その最前線であったのがこの松代城だったのです。 城主は何回も何回も変わっています。 現在は修復が進み、荒れ果てた城には見えません。 荒城の月の歌詞は、荒れ果て、石垣にはツタが這っている城を意味する言葉が使われています。 荒城の月の歌詞は土井晩翠が考え出した詩です。 土井晩翠はこの歌詞の中で、本当に荒れた城跡に月が昇ってくるような有様を、目に見えるかの如く歌いあげています。 しかし、この荒城の月の歌詞の意味はそのような有様を言っているだけではありません。もっと深い意味を持っています。 入れ込まれているその意味とは、「無常」です。 世の中は常に変わるものであり、常のままであるものは無い、つまり仏教に言う「無常」を言いたかったのです。 それは歌詞四番にはっきり出ています。「栄枯は移る世の姿」です。 この無常を言いたかったために、荒れた城を引き合いに出したと言っても良いでしょう。 土井晩翠の実家は檀家総代であり、仏教の信仰も厚かったと思われます。また、色々の知識も広く、しかも深かったのです。 仏教の心である無常を、荒城の月の歌詞は意味しています。 松代城の歴史は長く複雑に変化しています。これが無常でなければ何でしょう。 土井晩翠はこの荒城の月の歌詞で、無常を伝えたかったのだと私は解釈しています。 参照 松代城(Wikipedia)
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