荒城の月を思う城 上田城

上田城は上田市にあった城で、門は上田高校の正門になっています
   

上田城

上田城は上田市にあった城ですが、現在残っている城は、仙石忠政によって再建されたものです。現在は上田高校の敷地になり、門は学校の正門となっています。

上田城は、1583年、真田氏により築城されました。
その後数年間にわたり増改築されています。

1585年、第一次上田合戦があり、真田氏が徳川氏を撃退しています。
1600年、第二次上田合戦。真田昌幸等の軍は、再び徳川秀忠の軍を撃退しています。
1601年、昌幸が紀伊国九度山に移され、上田城は徳川氏により壊されました。
しかし、昌幸の長男の信之は東軍についていたため、昌幸の旧領であった上田領を引き継ぐことができ、三の丸跡地に陣屋を構え、居城としました。

1622年、真田氏は松代に移され、河って上田に入ってきた仙石忠政により再建が開始されました。
しかし2年後、忠政が亡くなったため、城の普請は中断され、その後本格的には建設は進みませんでした。

明治4年の廃藩置県により、上田城は明治政府に接収されました。
明治7年になって、接取されていた上田城の土地、建物は民間へ払い下げられることになりました。
本丸には7つの櫓がありましたが、現在の西櫓を残して、他は解体されたり売却されました。

昭和4年、西櫓の中に、上田市立博物館の前身である「徴古館」が作られました。

昭和9年、本丸と二の丸が国の史跡に指定されています。

この上田城の歴史の中に、真田昌幸が出てきますが、親子で西軍と東軍とに分かれ、互いに敵同士となっています。
この時の昌幸の決断は苦渋の決断だったと思います。
西軍が勝てば東軍は負け、東軍が勝てば西軍は負けるわけです。
真田家という家を絶やさないために、あえて親子で両軍に別れたわけです。どちらかは生き残ることが出来るからです。
荒城の月の歌詞の意味を、一言で言えば「無常」です。
無常とは仏教の心を表す言葉ですが、この世の中は常に移り変わっていくものであり、永遠に変わらないものは無いと言う意味です。
上田城の築城から廃棄、再建に至るまで数々の歴史があります。
荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠ですが、この方は仏教を信仰し、深い知識があったと思われます。
歌詞を作るとき、おそらく何回も書き直し、訂正し、練りに練って作り上げられるものだと思います。
出来上がっている歌詞を見て、その苦労は分かりません。
荒城の月の歌詞の中で土井晩翠は何を言いたかったのでしょうか。
もちろん、歌詞の意味として、荒れ果てた城跡に、石垣にはツタが這い、松には風が音を立てていると言う情景は見事に描かれています。
ここに月も加わり、まるで素晴らしい絵を見ているようです。
しかし荒城の月の歌詞が意味するところはもっと深いところにあります。
まとめて言いますと、歌詞四番に「栄枯は移る世の姿」とあります。これが土井晩翠の言いたかったこと、「無常」を意味していると私は解釈しているのです。

参照 上田城(Wikipedia)

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