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荒城の月を思う城 五稜郭五稜郭は柳野城とも言われ、星形です |
五稜郭五稜郭は柳野城とも言われます。10年近い歳月と巨額の費用が費やされました。しかし新政府軍は大砲を並べ五稜郭を砲撃し奪い取っています。星形をしており、荒城の月を思わせる城とも思われます。五稜郭(ごりょうかく)は、江戸幕府により箱館郊外に建造された城郭です。 元は湿地でネコヤナギが多く生えていたことから、柳野城(やなぎのじょう)とも言われました。 明治になってから、郭内の建物は1棟を除いてすべて解体され、陸軍の練兵場となりました。 その後、大正3年に五稜郭公園として一般開放されています。 その城址は、函館市民の憩いの場となっていますし、函館を代表する観光地となっています。 五稜郭建設開始の経緯は次のようです。 1854年3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定しました。 江戸幕府は松前藩領であった箱館周辺を検討し、箱館奉行を再置しました。 箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じところ、松前藩の箱館奉行詰役所があった[所に置かれました。 初代奉行の竹内保徳はこの建物を増改築して使用する考えを示しましたが、後続の奉行、堀利煕は、 「ここは箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、箱館山に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適していない。そのため、亀田方面への移転が必要である」 と上申。そして江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾は届かない、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築くことを提案。 その奉行所を移転する意見書は幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定したのです。 近年では、2006年に高さ107メートルの五稜郭タワー改築されています。 現在は全く観光地となっていますが、昔を偲んでみますと、やはり栄枯盛衰というか、無常を感じ、荒城の月の歌詞を思い出してしまいます。 土井晩翠の荒城の月。この歌詞は世の移り変わりを歌いこんでいると思いますが、歴史を見てみますと本当にその通りだと実感できます。 参照 五稜郭(Wikipedia)
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