荒城の月を思う城 高遠城

石垣と土塁が残り荒城の月の風情を思わせる城跡
   

高遠城

高遠城は伊那市高遠町にある城跡で、国の史跡に指定されています。石垣と土塁が残り荒城の月の風情を思わせる城跡です。

歴史

高遠城はいつ頃築城されたのかはっきりとは分かっていないようですが、諏訪氏一門の高遠頼継が住んでいました。

武田氏時代、1555年ころ、武田氏は小笠原氏や知久氏を破り、木曾氏をも破って信濃を平定しました。
高遠城を拠点として山本勘助らに命じて大規模な改築が行われたようです。
1556年には秋山虎繁が城主となっています。

1562年には四郎勝頼(武田勝頼)が高遠城の城主となっています。
武田信玄の後期から勝頼の時代にかけて、織田や徳川氏と対立していったため、高遠城は重要な軍事拠点となりました。

1582年、織田信長は長男の織田信忠に5万の大軍をもって高遠城を攻めさせました。
高遠城に籠もる兵の数はわずか3千であり、守備隊は玉砕しました。
高遠城が落城したため、織田勢は甲斐へも侵攻し、ついに武田氏は滅亡しました。

その後、家康方の家臣が高遠城に入っています。これを小笠原貞慶が攻めましたが撃退されています。

江戸時代は高遠藩の藩庁となりました。城主は交代し内藤清枚が入っています。
以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えています。

城の構造は中世の状態を踏襲しており、本丸には御殿があり、天守閣の代わりに三層の辰己櫓がありました。
城門は枡形形式の櫓門となっており、長塀に囲まれた近世的な城郭でした。

本丸門と本丸冠木門は、伊那市内の個人宅に移築されています。
二の丸門は個人宅から伊那市へ寄贈されています。
大手門は高遠高等学校正門として昭和59年まで使われていました。

城門の桜はとても綺麗で有名です。

荒城の月

高遠城の歴史はざっと見ただけでも時代とともに激しく変わっています。
荒城の月の歌詞は土井晩翠が作ったものです。
高遠城跡には堀や石垣の跡もあります。
この荒城の月の歌詞は実に見事に情景を表しています。月に照らされた城跡、石垣は崩れかけ、ツタが生い茂っています。松には風が音を立てています。
このような情景を土井晩翠はどこの城跡で考え付いたのかという議論がなされ、おそらく仙台の青葉城ではなかろうかと言われています。
確かにそうかもしれませんし、私もその考えに賛成です。
しかし、土井晩翠の言いたかったことは、そういう荒れ城の様子、情景というのでしょうか、絵姿だけではないように思えるのです。
もちろんその絵姿を巧みに歌詞の中に入れ込んでいます。ですからその解釈は間違いではありませんが、もう一歩突っ込んで彼の言いたかったことを解釈してみたいのです。
土井晩翠は菩提寺の檀家総代の家に育ち、仏教を信仰し、深い知識があったものと思います。
荒城の月の歌詞は、単に思い付きで出来上がっているのではなく、書いては消し、練りに練って作り上げているに相違ないと思います。
四番の歌詞に「栄枯は移る」と言っています。
これは荒城の月の全体を代表する言葉だと思いますが、実はこれは仏教でいう「無常」と同じ意味を持っているのです。
無常は、世の中は常に変化していると言うことです。
土井晩翠は、この荒城の月で、無常を人々に知ってもらいたかったのだと思います。
荒城の月は、綺麗であり、人々の心を打ちます。
何回読んでも感動します。これが荒城の月です。

参照 高遠城(Wikipedia)

TOP 前頁