荒城の月を思う城 新発田城

新発田市にあった城。石垣や表門と隅櫓が残っており、荒城の月を思わせます。
   

新発田城

新発田城(しばたじょう)は、新発田市にあった城。現在は本丸南側の石垣や本丸表門と二の丸隅櫓が残っており、荒城の月を思わせる風情もあります。

歴史

鎌倉時代初期に新発田氏が築城したと考えられています。

1581年、新発田重家が反乱を起こしたため、上杉景勝により落城し、新発田氏は滅亡しました。
その後溝口秀勝が6万石で新発田に入りました。
秀勝は、新発田重家の旧城を選び、領内を治める拠点として新発田城の築城を行いました。

城が完成したのは1654年頃と思われます。

その後1668年、城内の多くが焼失し、1719年にも火災で大きな損害を出していますが、その度に再建されました。

天守はなく、本丸の隅に三重櫓を作り、「三階櫓」と呼んでいました。
天守とは言わないようにしながら、実質的な天守としての役割を果たしています。

明治6年、明治政府の廃城令により、三階櫓など大半が破却され、表門と二の丸隅櫓のみが残されました。
接収された城跡には歩兵第16連隊が駐屯することになりました。

平成16年になって、三階櫓と辰巳櫓が復元されました。
現在、辰巳櫓のみ一般公開されています。

平成18年、日本100名城に選定されています。
周辺は新発田城址公園として公開されていますが、城郭跡の大部分は陸上自衛隊の駐屯地となっています。
そのため内部を観覧できるものは、二の丸隅櫓、本丸表門、辰巳櫓に限られています。

荒城の月

この新発田城(しばたじょう)は石垣も残っていますし、いくつかの櫓などもありますので、荒れ果てた城という感じは薄いものの、何となく荒城の月を思い出してしまう風情があります。
荒城の月は瀧廉太郎が作ったと思われがちですが、確かに作曲は瀧廉太郎ですけれども作詞は土井晩翠です。
土井晩翠のこの詩はとても味わいのある詩です。
荒城の月の歌詞は一見しますと、夜中に月が上がり、荒れ果てた城の石垣にツタが這い、松は風邪で音を出しています。
このような情景と言いますか絵姿が目に浮かびます。確かにその解釈は間違ってはいませんがもう少し深い意味を持っています。
土井晩翠は仏教に精通しています。このことが荒城の月の歌詞に深い意味を盛り込むことになっていると考えられるのです。
新発田城の歴史を見ますと、幾度となく城主も変わり、焼けたり再建されたり、常に移り変わっています。
荒城の月の歌詞では、高楼の宴など華やかな様子や植うる剣など権力を示したりしていますが、その光は今は無くなり、垣に残るはただ葛、と言っています。
このあたりの意味は、素直に解釈して荒れた城の様子を言う絵姿ととらえることが出来ますが、歌詞四番の「栄枯は移る」という言葉に注目してみる必要があります。
土井晩翠の言いたかったのはここだと思います。
実は、仏教の言葉に「無常」という言葉があります。
この無常というのは、常は無い、と書かれていますが、常であるものは無い、の意味です。世の中全てのものは移り変わるものであり、永遠に変わらないものは何一つないのですと言っているわけです。
仏教の真髄であり、大切な言葉です。
この言葉を、表現を変えて土井晩翠は、「栄枯は移る」と言ったのです。
これが、土井晩翠自身の心を打ち込んだ「荒城の月」なのです。

参照 新発田城(Wikipedia)

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