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荒城の月を思う城 高岡城高岡市にあった城で現在は高岡古城公園です。荒城の月がしのばれます。 |
高岡城高岡城は、高岡市にあった城。城跡は高岡古城公園となり、桜の名所です。土井晩翠作詞の荒城の月がしのばれます。歴史 1605年、前田利長は魚津城に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に築城の許可を貰いました。 利長は魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町も作り始めました。 1609年、利長はこの地を「高岡」と改め、未完成の状態でしたが、高岡城に入城しました。 御殿は伏見城の良材を使って作られたとも言われています。 しかし、1614年、享年53才にして利長は死去したため、ごく短い間しか隠居城として使われませんでした。 1615年、一国一城令によって、高岡城は廃城となりました。 廃城に伴い、城主であった前田利常は加賀の国に小松城を築いています。 しかし高岡城の廃城後も加賀藩の米蔵や火薬蔵、番所などが置かれ、軍事拠点として使用されました。 街道の変更時には、城址が街道から丸見えにならないよう、町屋を移転させて目隠しにしたと言われます。 瑞龍寺や利長の墓所も高岡城の防御拠点として配置されたものです。 城内の米蔵等は1821年ほぼ全焼しましたが、再建され明治まで残っていました。 明治8年、「高岡公園」として指定され、その後「高岡古城公園」に改名されています。 現在、公園は整備され、神社、動物園、民会館、博物館、体育館などの多くの施設があります。 また、約1800本の桜があり、さくら名所100選に選ばれています。 平成18年、高岡城は「日本100名城」に指定されています。富山県内ではここだけです。 荒城の月 高岡城跡として、堀や石垣は残っていますが、市民の憩いの場としての公園と言った感じが強いです。 しかし、この公園の桜並木を静かに見ていますと、時の流れを感じます。 昔、どのあたりに御殿があり、やぐらがあったのか分かりませんが、多くの人たちがここで暮らしていたのだなと思います。 ただ単に平和な暮らしを満喫していただけではないでしょう。 争いもあれば、命がけのこともあったに違いありません。 それでも、今、現に、桜があるのです。 昔とはずいぶん違っています。この違いとは何なのでしょうか。 荒城の月で土井晩翠が言いたかったことは、このことなのです。 荒城の月の歌詞は、高い建物の下では盛大な宴が催されたこともあるが、今は、荒れた城にツタが這っている、とまるで絵を見ているように綺麗に表現されています。 荒城の月の歌詞をそのままの意味で受け取れば、この高岡城は荒城にはあまり当てはまりません。 荒れてはいなく、桜が咲いているのですから。 しかし、土井晩翠はこの城のことも言っているのです。 荒城の月の歌詞、四番を見てください。「栄枯は移る」とされています。 この言葉は土井晩翠が考え抜いて書いた言葉だと思います。 仏教の言葉として「無常」という言葉があります。 これは、世の中にいつまでも変わらないものは無い、という意味で、まさに栄枯は移るなのです。 荒城の月は綺麗な絵姿を意味する歌詞の中に、このような深い意味をも入れ込んでいるのです。 高岡の城も、この「無常」そのものです。移り変わり行くと言う真実を語っています。 土井晩翠の詩である荒城の月は、人々に世の真実を伝えようとしているのです。 参照 高岡城(Wikipedia)
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