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荒城の月を思う城 七尾城七尾市にあった城で荒れ果てた城。荒城の月を思い出させます。 |
七尾城七尾城は、七尾市にあった城で国の史跡です。石垣や土塁、堀切などが残っていて、まさに荒れ果てた城。荒城の月を思い出させます。歴史 1429年頃、畠山満慶が能登国守護として築城したものと考えられています。 最初に作られたころは砦のようなものだったと思われます。 支配するための守護所はここではなく、府中にありました。 しかしその後順次整備拡張されて行きました。 五代当主の畠山慶致のとき、守護所は府中から七尾城に移されました。 以後150年間にわたりこの国の支配の根拠地となりました。 能登では当時戦乱が続いていました。 このためにさらに増築され、非常に大規模な城になって行きました。 山麓の城下町は一里余りも連なっていて、山頂にそびえる城は「天宮」とまで称された言われます。 日本五大山城に数えられるほど大きく強固な城となっています。 1576年、上杉謙信に包囲されましたが、一年以上も落城しませんでした。 しかし、徹底抗戦派の長氏一族が殺害されたため、ついに開城されたのです。 この城は、越中国と能登国を繋ぐ要所にあったため、しばらくして前田利家が入てきました。 しかしこのころになると山城の必要は薄くなり、利家は拠点を小丸山城に移したため1589年廃城となりました。 現在もその頃の遺構が多数残っています。 低い石垣を五段に積み重ねて作ってある本丸の石垣を中心として、各曲輪の石垣のほとんどが残っています。 天守と言えば高い石垣の上にあるものかと思いますが、ここでは段々の上にありました。 このような形式の山城は極めて少なく、歴史上重要であるとして、1934年国の史跡に指定されています。 平成17年には遺構調査が行われ、柱跡などの遺構も見つかっています。 荒城の月 七尾城の目に見える城跡は、ほとんど石段と石垣です。 昇って行く道は石段ですが。石が敷き詰められているのではなく、縁だけが石で途中は土です。 七尾というのは、この城が7つの尾根にまたがって作られていたために付けられた名前です。 数百年も前に作られた城ですが、こうして今でもその物が残っているのです。 重機などないわけですから石も一つ一つ運んだことでしょう。 苦労を重ねて作られたのです。 今、この荒れ果てた城跡を見ますと、まさに荒城の月の歌詞の通りです。 石垣にはツタが生い茂っています。 しかし、この荒城の月の歌詞を作った土井晩翠は、単にこのような情景を言いたかったのではないと思うのです。 もちろん荒城の月の歌詞の直接的な意味は、この荒れ果てた城を表していますから、この情景を言っていることに間違いはありません。 ただ、もう少し深い意味をも込めていたのではないかということです。 荒城の月歌詞四番を見てください。「栄枯は移る」としてあります。 栄えていた城も今は荒れ果てている、という情景を歌っていると同時に、これは仏教でいう「無常」を示していると思われます。 土井晩翠は、菩提寺の檀家総代であった家に育ち、仏教を信仰し、深く理解されていました。 荒城の月の歌詞の中にこの「無常」を入れ込んだのです。無常と言わず、栄枯は移るとしたのです。 昔の光いまいずこは、前置きのような感じがします。 土井晩翠は荒城の月の歌詞を作るとき、ただ、どこかの荒れ城に行って、ぱっとひらめいて作ったとは思われません。 考えに考え、練りに練って作り上げていったことと思います。 彼の言いたかったことは世の無常なのです。 荒城と月によってその無常を人々に伝えたのです。 土井晩翠は、世の中は常に変わるものだと言うことを人々に伝えるために、荒城の月を作ったのだと私は解釈しています。 参照 七尾城(Wikipedia)
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