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荒城の月を思う城 金沢城金沢市の城で、荒城の月の歌詞はこの城の移り変わりを指し示しています |
金沢城金沢城は、金沢市にあった城です。現在は立派な城であり、荒城の月を思う城とは雰囲気は異なりますが、歌詞の意味はこの城の移り変わりを指し示しています歴史 1546年、空堀や柵などを持つ城造りの寺院として尾山御坊が建立され、本願寺の拠点となっています。 1580年、佐久間盛政が勝ち取り、金沢城と改称しました。 1583年、 前田利家が入城し、尾山城と改称しています。 1587年、利家に呼ばれた高山右近が、尾山城の大改造を行ない、再び金沢城と呼ばれるようになりました。 1592年、利家の子、前田利長により再び改造が進められました。 1602年、天守が落雷で焼失しました。その代わりとして三階櫓が建造されました。 1632年、城内に辰巳用水が引き込まれました。 1759年、宝暦の大火に見舞われ、多くの建物が焼失しています。 1881年、再び大火が起こり石川門と三十間長屋などを残して焼失してしまいました。 1898年、陸軍第9師団の司令部が金沢城址に置かれました。 1996年、石川県が金沢城址を購入し、金沢城址公園としました。 2001年、第1期復元工事により、菱櫓や橋爪門などが復元完了し、金沢城公園と改称されました。 2006年、日本100名城に選定。 2008年、国の史跡に指定。 2011年、河北門と、いもり堀の一部が復元。 2013年、石川門改修完成。その後、玉泉院丸跡、玉泉院丸庭園、玉泉庵が完成し、鶴の丸休憩館がリニューアルオープンしています。 荒城の月 この城は、戦乱によって取ったり取られたりする回数は比較的少ないのですが、火災による焼失が幾度か起こっています。 その結果、石川門と三十間長屋などほんの少しの建物が残るだけの時もありました。 しかし、多くの人の努力によって復元、修理され、見事に元の姿に近くなっています。 荒城の月の歌詞は、荒れた城跡に月が昇り、石垣にはツタが生い茂っていると歌っています。 この情景は少し違う感じがしますが、実は荒城の月の歌詞の意味は、もっと深いところを示しており、この金沢城のことも含めているのです。 荒城の月は、春高楼の花の宴から始まり、昔の光今いずこと言ったりもしています。 このように荒城の月の歌詞を考えた土井晩翠は、情景の描写をもってその哀れを示しているのですが、荒城の月の歌詞四番をご覧ください。 「栄枯は移る」と言っています。これは絵姿ではありません。世の習いを示しているのです。 土井晩翠の実家は菩提寺の檀家総代でもあったため、仏教を信仰し、深い理解を持っていました。 この仏教の言葉として「無常」という言葉があります。 荒城の月の歌詞四番の「栄枯は移る」はこの「無常」と同じ意味のことを言っているのです。 荒城と月という歌の中では、いわゆる宗教の匂いのする言葉は使いたくなかったのだろうと思いますが、土井晩翠はこの「無常」を言いたかったのだと私は解釈しています。 「無常」を本当に理解し切れば、それは仏教の悟りを得たのと同じくらいに深いことです。 とてもここでその内容を書き示す力はありませんが、「常は無い」と書かれています。 常というのはこの世の今の姿を保つことです。 今の姿のままでいられるものはこの世の中には無い、何事もすべて移り変わらざるを得ないのだと言っているのです。 土井晩翠は、荒城の月の歌詞を持って、この無常を伝えたかったのだと思います。 増設されたり、焼失したり、あるいは復元されていく城の姿は、無常であり、このことを土井晩翠は「荒城の月」で示しているのです。 参照 金沢城(Wikipedia)
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