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荒城の月を思う城 丸岡城天守が現存し、人柱となったお静の慰霊碑もあります |
丸岡城丸岡城は、坂井市丸岡町にあった城で、霞ヶ城とも言われ、天守が現存します。人柱となったお静の慰霊碑もあります。歴史 1576年、柴田勝家の甥の勝豊により築城されました。 1582年、本能寺の変の後、勝豊は近江に移され安井家清が城代となりました。 1583年、柴田勝家が滅びたため、丹羽長秀の所領となり、長秀は青山宗勝を丸岡城主としました。 1600年、丸岡城には今村盛次が2万6千石で入城しています。 1612年、今村盛次は失脚し、本多成重が城主となりました。 1624年、本多成重は大名に列し、丸岡藩ができました。 1695年、本多家は幕府により改易となりました。 代わって有馬清純がこの城に入り、有馬氏の居城となって明治維新を迎えました。 荒城の月 この城には天守が現存します。 しかしこの天守を作るときの悲しい伝説があります。 石垣が何度も崩れて天守台がなかなか出来なかったため、人柱を立てることになったのです。城下に住む「お静」は人柱となり天守は完成しました。しかしお静の願いは受け入れられず、大蛇となったお静の霊が暴れ回ったと言われます。 今はお静の慰霊碑が建てられています。 この城跡はこじんまりとしていますが、よく整備され、今も天守を見ることが出来ます。 荒城の月と言いますと、荒れ果てた城跡の石垣にはツタが這い、松には風が音を立てていると言ったイメージがありますが、この城にはあまりそういった風情は感じられません。 夜中に月が昇れば、天守と一体となり、綺麗な絵姿になります。 ではこの城は荒城の月の中には入らないのでしょうか。 いえ、決してそうではありません。 もし、そのように解釈するのならば、少し早計であると言わざるを得ません。 荒城の月はもっと深い意味を持っています。 丸岡城は何回も城主が変わっていますし、天守も崩れたものが再建されているのです。 時と共に色々の歴史を重ねているわけです。 荒城の月の歌詞は素晴らしい情景を目の当たりに見せてくれます。 荒れてしまった石垣、高楼、花の宴、いろいろの情景が目に浮かびますが、この荒城の月を作った土井晩翠は、このような情景を示しながら、もっと深い意味を人々に伝えたかったのです。 土井晩翠は仏教を信仰し深い知識を持っていました。 仏教に、「無常」という言葉があります。この無常というのは、常が無いと書かれていますが、常とは今の状態が永遠に変わらないことを意味します。 ですから、無常は、永遠に変わらないものは無い、すなわち、この世にあるものは全て時と共に変わるものだと言っているわけです。 荒城の月の歌詞、四番に、「栄枯は移る」となっています。 これは土井晩翠が考えに考え、練りに練って書いた言葉だと思います。 この栄枯は移るは無常を意味しています。 荒城の月の中で土井晩翠は恐らく無常と言いたかったのでしょうが、あまりにも宗教的な言葉を入れるのはためらい、栄枯は移るとしたのだと思います。 この城の歴史は正に無常そのものではありませんか。 世の中は移り変わるものだと言うことを人々に知らせようとして、荒城の月を作ったのだと思います。 参照 丸岡城(Wikipedia)
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