荒城の月を思う城 一乗谷朝倉氏遺跡

たくさんの遺構や遺跡があり、荒城の月が思われます
   

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷遺跡は、戦国時代の朝倉氏の遺跡です。砦などが築かれ、地域全体が城を形成していました。たくさんの遺構や出土品があり、荒城の月が思われます。

歴史

1471年ころ、朝倉敏景が本拠としたと言う説もあります。
朝倉氏は南北朝時代には、本拠にしていたとも言われています。
文明年間には鞍谷公方なども居り、多くの公家や高僧や文人たちが一乗谷に来て、飛躍的に発展し、京文化が入り込みました。
戦国4代、朝倉孝景の頃には全盛期となり、人口1万人を超えるほどとなって、越前の中心地として栄えました。
1573年、義景は刀禰坂の戦いに大敗し、一乗谷を放棄しました。すぐに信長の軍勢によって焼かれたため一乗谷は消滅してしまいました。

一乗谷城は朝倉氏によって一乗城山に築城された中世の山城です。
15世紀前半にはすでに築かれていたと考えられていますが、一度も戦闘には使われることなく廃城となっています。
現在でも、曲輪や空堀、堀切、さらに竪堀、土塁跡などのたくさんの遺構が尾根や谷に残っています。
その大きさは、全長1.5kmにも及びます。主郭部分はおよそ長さ600m×幅200mです。
本丸は標高416mの所にあり、尾根伝いに一の丸、二の丸、三の丸となっています。
各曲輪の間は堀切になっています。

荒城の月

この城の跡には数えきれないほどの遺構や土塁がありますが、当時の華やかさをつたえるものとして、庭園の跡があります。
庭池と石組で作られた豪華な林泉庭園には、砂礫と立石、伏石など枯山水庭園が有ったり、多くの庭園跡が残っています。

荒城の月の歌詞一番に、花の宴とありますが、このような豪華な庭園もあったのかもしれません。
荒城の月では色々の情景が表現されています。とても素晴らしい絵を見ているようです。
この荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠ですが、晩翠は仏教を信仰し深く理解していたと思われます。
この歌詞の意味するところは確かに情景というか絵姿を非常に綺麗に描き出していますが、土井晩翠の本当に言いたかったのはもっと深いところにあると思えます。
歌詞四番には、「栄枯は移る」とされています。
これは絵姿ではありません。ものの理を言っているのです。
仏教の言葉に、「無常」という言葉があります。
この無常という言葉は、大変奥の深い言葉であってとても言い尽くすことは出来ませんが、大意は、この世にあるものは全て移り変わるのであって、永遠に変わらないものは無い、というような意味です。
土井晩翠の荒城の月、この荒城の月の中で彼が一番言いたかったのはこの「栄枯は移る」であり、これは「無常」を示しています。
本当ならずばり「無常」という言葉を使いたかったのでしょうけれども、歌詞としては適さないと考え、あのような情景と栄枯は移るを使っているのです。
荒城の月で土井晩翠が言いたかったことは、この一乗谷もそうですが、世の中は常に変わらざるを得ないのだと言うことです。
このことを言いたいがために、考えに考えてこの荒城の月を作り上げたのだと私は解釈しています。

参照 一乗谷朝倉氏遺跡(Wikipedia)

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