荒城の月を思う城 岩村城

城は解体され残っているのは石垣のみです。この城は正に「荒城の月」の状景を呈しています。
   

岩村城

岩村城は恵那市にあった城。江戸時代には岩村藩の藩庁でしたが、城は解体され残っているのは石垣のみです。この城は正に「荒城の月」の状景を呈しています。

歴史

鎌倉幕府のころ、遠山景朝が築き、そののち子孫の岩村遠山氏が戦国時代まで治めました。
織田氏、徳川氏、武田氏の争いが激しくなる戦国時代末期に遠山氏と武田氏により本格的な城が構築されたと考えられています。
1570年、 遠山氏最後の城主は遠山景任となっています。

1571年、景任の病没により坊丸を遠山氏の養子とし、後見は信長の叔母にあたる女性で、女城主として君臨していました。
1572年、信玄は徳川家康を攻撃するために出陣したとき、岩村城を攻略しました。しかし、城は容易に落ちませんでした。
1573年、虎繁は夫人を説得し妻に迎え、岩村城は落城しました。

1575年、長篠の戦いで武田勢が弱体化したため、信長は岩村城を奪還しました。織田方の城となり、河尻秀隆を城主として城の改造が行われ、現在残っている城郭に近いものとなりました。
この後城代となった各務元正は、17年という年月をかけて更に改築し、近代的城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成しました。

関ヶ原の戦いの後には松平家乗が入城しています。
家乗は山上の城主居館を、城の山麓に移すとともに城下町を整備しました。

以後、明治維新まで松平氏の居城となりましたが、廃城令により、明治6年に城は解体され石垣のみとなりました。
藩主邸は残されましたが、全焼しています。

跡地には、岩村町歴史資料館が出来ています。
日本100名城の一つに指定されました。

荒城の月

岩村城の歴史は激しいものです。
最後には石垣だけとなってしまいました。
荒城の月の歌詞に言われている通りの風情になっています。
荒城の月は、石垣にはツタが生い茂り、松は風でひゅうひゅう音を立てていると言う絵姿をものの見事に表現しています。
夜中に月が昇ってくれば、この城跡は、荒城の月の言う通りの姿になっています。

荒城の月は土井晩翠の作詞です。
瀧廉太郎が作ったと思ったら間違いです。瀧廉太郎は作曲したのです。
荒城の月の詩を作った土井晩翠は、実家が菩提寺の檀家総代を務めていたこともあって、仏教を信仰し、深い理解を得ていました。
荒城の月に限らず、作詞というものは単なる思い付きですらすら書けるものではありません。
考えに考え、練りに練って作り上げられるのです。
土井晩翠が荒城の月のモデルとした城は仙台城だと言われます。私もそう思いますが、荒城の月に込めた土井晩翠の思いはもっと深いものがあったと思えるのです。
月や石垣の様子を確かに言っていますが、そういう情景的絵姿だけを言っているのではないのです。
荒城の月の歌詞四番をご覧ください。「栄枯は移る」とされています。
彼が言いたかったのはこのことです。

仏教の言葉に、「無常」という言葉があります。これは、「常であるものは無い」といっています。
常であるものとは、現状の姿を永遠に保つもの、との意味ですから、無常とは、この世には変化しないものは無い、という意味です。
土井晩翠は、荒城の月において、石垣など巧みな表現でその絵姿を表していますが、彼の言いたかったことはこの「無常」だったのです。

土井晩翠は、この世の中は、全てのものが移り変わるものなのだと、人々に伝えようとして、荒城の月を作ったのです。
私はこのように荒城の月の歌詞の意味を解釈しています。

参照 岩村城(Wikipedia)

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