荒城の月を思う城 岐阜城

荒れた城ではありませんが、荒城の月を思うことが出来る城です。
   

岐阜城

岐阜城は、岐阜市にあった城。国の史跡になっていますが、鉄筋コンクリートの天守です。見た感じは荒れた城ではありませんが、荒城の月の歌詞を思うことが出来る城です。

歴史

1201年、二階堂行政が稲葉山(現在の金華山)に築いたのが始まりと考えられています。

15世紀中頃 、斎藤利永が、廃城となっていたこの城を修復して居城としました。
1525年、長井長弘が稲葉山城を攻撃し、長井氏の支配下となりました。
1539年、斎藤利政が城作りを始めました。

1567年、美濃を攻略しようとしていた織田信長が稲葉山城の戦いを起こし、奪い取りました。信長は、小牧山城から稲葉山に移つり、城と町の名を「岐阜」と改めめました。
その後、何回も城主は変わっています。

1592年、織田秀信が美濃国、岐阜13万石を領地とし岐阜城の城主となりました。

1601年、徳川家康は岐阜城を廃城をとしました。
奥平信昌に10万石をもって加納城を築城させますが、その際、岐阜城にあった天守や櫓、あるいは山麓の石垣などを加納城に移しました。
また、御殿建築は大垣市のお茶屋敷に移されたといわれます。

明治43年に天守が再建されています。これは、木造でトタン葺きでした。このとき、石垣を一回り小さくしてしまったといわれます。
しかし昭和18年、老朽化も進んでいましたが、失火のため焼失してしまいました。

昭和31年、鉄筋コンクリート造りの復興天守が完成しました。
昭和50年、隅櫓として岐阜城資料館が完成しました。
昭和59年、 信長居館跡の発掘調査が行われ、土塁や石垣などが発見されています。また陶磁器や刀なども出土しています。
その後改修もさらに進められ、 日本100名城にも選定されています。

荒城の月

金華山の山頂に作られた岐阜城は、遠くからも良く見えます。
立派な城に見えます。
とても荒れ果てた城、荒城には見えません。
しかしこの岐阜城も荒城の月の歌詞に詠いこまれた意味によく適合するのです。
荒城の月は、荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、松が寂しげにひゅうひゅう音を立てていると言った絵姿を示しています。
そういう意味ではこの城は現在荒城の月とは言えない状態です。
しかし、荒城の月はそのような情景だけではなく、もっと深い意味を持っているのです。
荒城の月は土井晩翠が作った詩ですが、この詩の中には、彼が本当に言いたかったことが入っているのです。
そういう意味でこの岐阜城は、荒城の月の言いたかったことによく適合しているのです。

荒城の月の歌詞四番を見てください。
「栄枯は移る」とされています。
土井晩翠は、書けるならば「無常」と書きたかっただろうと思います。
荒城の月で言う「栄枯は移る」は、仏教でいう「無常」と同じ意味です。
無常というのは、仏教の心であり、根本的な考え方です。
常は無い、と書かれていますが、これは、常であるものは無いの意味で、常であるものとは、未来永劫変わらないもののことです。
仏教でいうこの「無常」は本当にわかるのには大変な修行が必要とされています。
このため、正確にここで記すことは出来ませんが、大体そういう意味です。
土井晩翠は、荒城の月という題名と、歌詞をもって、本当に言いたかったのはこの「無常」をだったのです。
人々に、この世は無常であると言うことを伝えたかったのです。
それを伝えるために荒城の月を作ったと言えるのです。

岐阜城の歴史は大変な歴史です。取ったり取られたり、焼けたり作られたり、常であるものは全くないのです。
その意味で岐阜城は荒城の月の歌詞の意味をよく表している城だと思います。
土井晩翠の荒城の月、これは無常を世の人々に知ってもらうために作詞されたのだと私は解釈しています。

参照 岐阜城(Wikipedia)

TOP 前頁