荒城の月を思う城 山中城

土塁などは芝を張ってあり、荒城の月のような風情はありませんが、荒城の月を思い出します。
   

山中城

山中城は、三島市にある城跡で、国の史跡。堀や土塁などは上芝を張ってあります。荒城の月のような風情はありませんが、荒城の月を思い起こさせてくれる城です。
荒城の月の歌詞は、荒れた城の石垣にはツタが生い茂り、松は風で音を立てていると言った情景が歌いこまれています。 この山中城は土塁や堀が発掘され、保存のために芝が張られています。 そのため、絵姿としては荒城の月とは少し違いますが、じっと眺め、歴史を思いますと、荒城の月の歌詞で言っていることそのままなのです。

歴史

永禄年間(1560年頃)、北条氏康が築城したとされています。
北条氏の本拠地、小田原の防衛としての最重要拠点でした。

豊臣秀吉との関係が良くない状態になったため、山中城を改修し防備を高めようとしましたが、未完成のまま豊臣軍に攻撃されることになりました。

1590年、小田原征伐に出陣した豊臣秀次の率いる軍勢は7万と言われます。
山中城を守るのはは北条氏勝や間宮康俊など3千です。
間宮康俊は自ら手勢200を率いて苛烈に抗戦しました。
豊臣方も戦死者を出しましたが、戦力差は甚だしく、猛烈な力攻めが行われて落城してしまいました。
戦後、城は廃城とされました。

昭和5年、国の史跡に指定されています。

昭和48年、三島市が公園にしています。同時に学術的な調査も行われました。
三島市によって整備改修がなされ、堀などの遺構は盛土を行って芝を張って保護してあります。
畝堀や障子堀の構造がよくわかるように整備されており、北条氏の築城方法が見える城跡とになっています。

平成18年、日本100名城に選定されました。

荒城の月

荒城の月は瀧廉太郎が作ったと思われがちですが、滝廉太郎は作曲はしましたが作詞はしていません。
荒城の月の作詞は土井晩翠が行いました。
この荒城の月の歌詞で言われる「荒城」はどこの城だろうかと色々言われています。
恐らく、仙台の青葉城ではなかろうかという説が有力です。青葉城は仙台城とも言われます。
要するに荒城の月は仙台城をイメージして土井晩翠が作ったのだろうと言う説です。
私もその説には賛成ですが、実は、かれはそのように表現しながら、もっと深いところを人々に知ってもらいたかったのだと私は解釈しています。

土井家は菩提寺の檀家総代を務めている家であり、晩翠は、仏教を信仰し、相当深く理解していたと思われます。
仏教の言葉に「無常」という言葉があります。
このことを荒城の月をもって、人々に伝えたかったのだと思われるのです。
無常というのは、世の中にある全てのものは常の状態を保つことは出来ない、つまり、世の中にある全てのものは移り変わるものであると言う意味です。

荒城の月の歌詞四番を見てください。「栄枯は移る」とされています。
土井晩翠はこのことを伝えたかったのです。
「栄枯は移る」とは、「無常」と同じことです。
仏教を深く理解していた土井晩翠だからこそ、このような言い回しで表現できているのです。

山中城は今、城の姿はとどめていません。
うね堀(畝堀)という珍しい堀が綺麗に整備され、芝生で覆われています。
昔はここに城があり、人々が住んでいたのです。
取ったり取られたり、壊れたり作り直されたりしながら現在に至っているのです。
この歴史を思えば、これは、「栄枯は移る」であり、「無常」そのものです。

荒城の月の言いたかったことは、月が照らし出している絵姿だけではないのです。
荒城の月の本当に言いたかったのはこの「無常」なのです。

参照 山中城(Wikipedia)

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