荒城の月を思う城 駿府城

荒城の月は綺麗な情景描写のほかに、もっと深いことを言おうとしています
   

駿府城の歴史

1585年、徳川家康が築城。

1590年、徳川家康は江戸に移り、中村一氏が入城。
1601年、家康の異母弟である内藤信成が駿府城主となりました。
1607年、火災が発生し、御殿や天守などを焼失しましたが直ちに再建にかかりました。
翌年には本丸御殿や天守等が完成しています。

1609年、家康の第十子である徳川頼宣が駿府城主になりました。

その後、何回も城主が変わっていますが、最後は城主の居ない状態になっています。
1635年、城下の火災が城に延焼してきて、城の大半を焼失してしまいました。

1638年、御殿と櫓、城門等が再建されましたが、城主が居ない状態だったため、天守は再建されませんでした。

1868年、徳川家達が駿府藩主となって駿府城にはいりました。
明治2年に、江戸が東京に代わり、駿府が静岡に名前が変わりました。

明治24年、静岡市に払い下げられて、公園になりました。

明治29年、歩兵連隊が入ったことにより、本丸の内堀は埋められ、城としての施設は凡て取り壊されました。

昭和24年、静岡市に再度払い下げとなり、本格的に公園として整備されました。
その後、駿府公園と命名され、平成に入って、巽櫓が復元され資料館として公開されています。
平成8年には東御門が復元し、資料館として公開され、平成18年 日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は土井晩翠の作です。
土井晩翠は日本中に名を轟かせるほどの大作詞家ですが、仏教の心得も深く、信仰心も厚いものでした。
土井晩翠は仏教の真髄である「無常」という言葉を十分心得ていたと思われます。
荒城の月の中でこの「無常」という言葉を使いたかったのでしょうが、宗教言葉を使うのは避けたようです。

荒城の月の歌詞四番に「栄枯は移る」とあります。
仏教の言う「無常」とは、常を保つものは無い、と言っています。
この世において、未来永劫変わらないものはあり得ないと言っているわけです。
荒城の月の「栄枯は移る」はこの無常を示しています。
土井晩翠はすごい技術力で、荒城の月の歌詞の中に、この「無常」の概念をもり込んでいるのです。

荒城の月は、春、高楼の、花の宴から始まり、荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂っていると言っています。
さらに月がその様子を照らしているのです。
素晴らしい絵姿が目に浮かびます。
土井晩翠の表現力は素晴らしいと思います。

駿府城は家康が築城してから壊されたり再建されたりしています。城主も何回も変わっています。
この城は立派に作り直され、多少ツタの有る石垣は残っていますが、荒れ果てた城には見えません。
しかし、荒城の月の言う「栄枯は移る」、つまり「無常」はこの城、駿府城の歴史を正しく物語っています。
駿府城もこの無常から逃れることは出来ていないのです。

荒城の月は綺麗な情景描写をもって目に絵姿を見せてくれていますが、土井晩翠が荒城の月をもって人々に伝えたかった真意はこの「無常」なのです。
荒城の月の真意は無常を伝えることであったと、私は解釈するのです。

参照 駿府城(Wikipedia)

TOP 前頁