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荒城の月を思う城 掛川城建物などが復元され夜中の月が荒城の月を思う絵姿になります |
掛川城は掛川市にあった城です。建物や石塁が復元され夜中の月がよく似合い、荒城の月を思う絵姿になります。 しかし荒城の月は絵姿だけを言っているのでなく、もっと深い意味を持っています。その真意を見てみましょう。 掛川城の歴史室町時代に今川義忠が築城した考えられています。城代は朝比奈泰朝が務め、朝比奈泰能、朝比奈泰朝が城を預かりました。 1568年、今川氏が武田信玄と徳川家康の挟み撃ちに遭い、掛川城に逃げ込みました。 このため、掛川城は徳川勢に包囲されるところとなり、ついに開城されることになりました。 1569年、掛川城には家康の重臣である石川家成・康通親子が入りました。 その後武田信玄と徳川家康は敵対関係となり、掛川城付近は激しい攻防戦の舞台となりました。 しかし掛川城は1582年武田氏滅亡まで徳川氏の領有として残っています。 1590年、家康が関東に移つり、掛川城には豊臣秀吉により山内一豊が5万1千石の城主として入りました。 一豊は掛川城を大幅に拡張し、石垣や天守など近世的な城郭として整えました。 1600年関ヶ原の戦いの後、多くの大名が入っていますが、最後には太田道灌の系統が入り、更に城の修築を行っています。 1854年、東海地方を大地震が襲い、掛川城は天守を含めてほとんどの建物が倒壊しました。 1861年、二ノ丸御殿は再建されましたが、この時は天守は再建されていません。 平成6年、天守が再建されました。天守は木造で再建され、日本初の木造復元天守となっています。 平成18年、日本100名城に選定されています。 荒城の月の真意復元された城門とその奥に見える天守に月が昇ってくる様子は素晴らしい絵になります。荒城の月の歌詞では、荒れ果てた城の石垣と月を歌っていますが、これとは別の感じがする絵になります。 込荒城の月の詩を作ったのは土井晩翠です。 土井晩翠は色々な知識も深く、仏教を信仰していました。 彼の作った荒城の月は見事な絵姿を表現しており、まるで立派な絵を目の前に見ているようです。 この荒城の月の歌詞の意味は単純にとらえますと、昔の光は無くなり、今は石垣にはツタが映えるほど荒れ果てた城を表現しています。 そのような意味では現在の掛川城は歌詞の意味と異なることになるのですが、実は、土井晩翠の作った荒城の月はもっと深い意味を持っており、この掛川城はぴたりと当てはまるのです。 荒城の月の歌詞四番を見てください。「栄枯は移る」とされています。 これが荒城の月の言いたかったところであり、仏教でいう「無常」を示しているのです。 土井晩翠はこの「無常」をよく分かっていたのです。 出来ることなら荒城の月の歌詞の中に無常と入れたかったのでしょうが、この言葉を使わず、栄枯は移ると表現したのです。 仏教でいう「無常」とは、常は無いと書かれていますが、その常というのは未来永劫変わらないものという意味ですので、この世の中にはずっと変わらないでいられるものは無いと言うことになります。 荒城の月をもって土井晩翠の言いたかったことはこの「無常」です。 掛川城の歴史は正にその通りのことを物語っています。 掛川城も無常のものなのです。 荒城の月の本当に言いたかった真意をはっきりと示しているのです。 荒城の月は、人々に「無常」を伝えるために作られたと言っても良いのではないでしょうか。 参照 掛川城(Wikipedia)
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