荒城の月を思う城 犬山城

国宝の天守があります。荒城の月を思うことのできる素晴らしい城です。
   
犬山城は犬山市にあった城で、天守だけ現存し国宝です。荒城の月を思うことのできる素晴らしい城です。ここでは荒城の月の深い真意を読み解いてみます。
この天守に月が昇ってくれば本当に素晴らしい絵姿になります。
しかし、荒城の月は、そのような絵姿だけではなく、もっと深い意味をも表わしています。
荒城の月の真意である「無常」について書いてみます。

犬山城の歴史

1469年、応仁の乱のころ織田広近がこの地に砦として築いたのが始まりと言われています。

その後、1537年、織田信康が現在の位置に城として作り住んでいました。このとき、現存する天守の2階まで造られた考えられています。
1544年、織田信康が戦死し、子の織田信清が城主となりました。
1564年、織田信清は織田信長と戦い、敗れています。

以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務め、本能寺の変後は中川定成が城主となっています。
江戸時代になるころまで、次々と城主が変わっています。 小笠原吉次、平岩親吉、親吉甥の吉範、尾張藩付家老の成瀬正成などが城主になっています。

最終的には、明治になって廃藩置県が行われるまで、成瀬家9代の居城となっていました。

廃藩置県の廃城では、天守以外の櫓・城門などすべてが取り壊されました。
1891年の濃尾地震で天守の一部が壊れました。
明治28年、城を修復することを条件に、旧犬山藩主である成瀬正肥に無償で譲渡されました。

2004年まで、成瀬氏の個人所有でしたが、維持が困難となり、財団法人となって犬山城は個人所有でなくなりました。
現在、入場料は必要ですが、天守内部も公開されています。

荒城の月の真意

犬山城は大変多くの歴史を持っています。城主は次つぎと交代し、総勢27名に上ります。
荒城の月は土井晩翠が作詞しました。
土井晩翠は仏教を信仰し、深い理解を持っていました。
荒城の月の歌詞を一見しますと、荒れ果てた城跡を月が照らし出しているような絵姿が目に浮かびます。
それはそれでよいのですが、荒城の月で土井晩翠が言いたかった真意は、もう少し深いところにあります。
荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」とされています。
これが土井晩翠の本当に言いたかったところです。
土井晩翠は仏教に詳しく、「無常」という言葉をよく理解していたと思われます。
この、仏教でいう「無常」は、常が無い、と書かれていますが、その「常」というのは今のままで永遠に変わらないことを意味します。
ですから、無常は、永遠に変わらないものは無い、ということを意味するわけです。
荒城の月の「栄枯は移る」はこの「無常」と同じことを意味します。
土井晩翠は、歌詞の中で無常と言いたかったのでしょうが、詩にするには少し具合が悪いと考えたのでしょう。
それで「栄枯は移る」という言葉でこの「無常」を表現したわけです。
作詞の技術力には感心させられますが、このような表現であるからこそ、人々に分かってもらえるわけです。
もし、「無常」と書いていたら、分かってくれる人は少なかったかもしれません。
土井晩翠が、仏教の根本をよく知っていたからこそ。このように表現できたのではないでしょうか。
荒城の月の本当の思いは、人々にこの世は無常であると言うことを伝えたかったのです。
犬山城は、絵姿も荒城の月に言う通りですが、それ以上に、その歴史が無常を物語っています。
荒城の月を思うとき、犬山城はまさに無常を示しているのです。荒城の月の真意を語ってくれているのです。

参照 犬山城(Wikipedia)

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