荒城の月TOP荒城の月を思う城

荒城の月を思う城 岡崎城

徳川家康の生地。石垣は多く、荒城の月を思う城です。
   
岡崎城は、岡崎市にある城。徳川家康の生地です。天守以外ほとんど建物は残っていません。石垣は多く、荒城の月を思う城です。
荒城の月を思う風情ですが、荒城の月の言いたかったことはもっと深いところにあります。仏教でいう「無常」を言いたかったのです。
この岡崎城は「無常」をも表わしている城です。

岡崎城の歴史

1455年ころ、龍頭山の砦として西郷氏が築城したのが始まりです。

15世紀後半、松平信光が西郷氏を破り、松平光重が城主となって松平家となりました。

1531年、徳川家康の祖父である松平清康が城主となりました。
城郭を整備して勢力を広げました。
1542年、城内で後の徳川家康となる竹千代が生まれました。
当時は櫓や門は茅葺で、石垣などもなく、ただ堀をつくった土をかきあげた土塁がめぐっていただけでした。

1549年、松平広忠が殺害され、岡崎城は今川家の支城となりました。山田景隆らが城代となっています。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が敗れ、松平元康は岡崎城を取り戻しました。
1570年、松平元康は徳川家康と名を改めていましたが、本拠を浜松城に移しましたので、岡崎城には松平信康が入りました。
しかし信康は謀反の疑で自刃し、石川数正、本多重次らが城代となりました。

1590年、家康が関東に移ることになり、豊臣方の田中吉政が岡崎城に入りました。
吉政は城を拡張補強し、強固な石垣や城壁などを多用した城郭にしました。同時に城下町の整備も行っています。

1602年、徳川氏の重臣である本多康重が5万石で入城し、それ以降、徳川政権下においては、家康誕生の城として大切にされ、譜代大名が城主を続けています。
1617年、3重の天守が完成。
1644年、本多忠利が石垣を完成させます。

明治6年、廃城令により廃城となり、天守以下の建物が壊されました。
昭和34年、鉄筋コンクリート製で天守が再建されました。
平成18年、日本100名城に選定。
平成19年、発掘調査により石垣が見つかりました。これにより日本で4番目の規模の城であることがわかりました。
現存する建物は、北曲輪門、北門(二の門)、念沸堂赤門ですが、それぞれ移築されています。

発掘された石材によって空積みの石垣も築かれ、現在は年中無休で公開されています。

荒城の月の真意

現在の岡崎城は石垣もあり松も茂っていますが、よく手入れされていて、荒れ果てた城というイメージはあまりしません。
ここに月が昇ってきたとして、荒城の月を思う城と言えるかどうか微妙な風情です。
風情と言いますか、絵姿はそうなのですが、荒城の月の本当に言いたかった真意には、この岡崎城は確実に適合するのです。
荒城の月の歌詞の中には直接出てきませんが、言いたかったことは「無常」ということなのです。
無常というのは仏教の言葉で、今のままの姿を永遠にとどめるものはこの世には存在しないと言うことです。
荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠です。
土井晩翠の家は檀家総代を務めており、晩翠は仏教を信仰しています。深い理解があったことと思われます。
荒城の月の歌詞、四番を見てください。「栄枯は移る」とされています。
「栄枯は移る」は、「無常」ということです。
土井晩翠は荒城の月の中で、この「無常」と言う言葉を使いたかったのでしょうが、宗教の言葉を直接持ってくることは難しく、かわりに「栄枯は移る」としたのだと考えられます。
ここが土井晩翠のすごい技術です。 このように表現したからこそ、皆に親しんでもらえる歌詞になっているのです。
もし「無常」としたら、分かる人も少なく、親しんでもらえなかったかもしれません。
しかし、荒城の月で彼が本当に言いたかった真意は「無常」にあったのです。
岡崎城の歴史を見ていると、この荒城の月を思うのです。「常」は無いのです。
絵姿も素晴らしい表現ですが、この荒城の月は素晴らしい表現で、「無常」を人々に知ってもらいたかったのです。
そういう意味で、荒城の月を思う岡崎城だと私は思います。

参照 岡崎城(Wikipedia)

荒城の月TOP 前頁