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荒城の月を思う城 長篠城荒城の月の本当に言いたかった真意を語る城です |
荒城の月を思うとき長篠城を思います。長篠城は新城市にあった城で、激しい攻防戦で知られています。情景もさることながら、荒城の月の真意を語る城です。 土井晩翠の作詞ですが、歌詞をしっかり見ていますと、石垣に残るツタや松という絵姿のほかに、もっと深い意味での「無常」が読み取れます。 長篠城は、荒城の月が真に言いたかった無常を物語っている城です。 長篠城の歴史1508年、 菅沼元成が築城し元成と、その子である長篠菅沼氏が住んでいました。1571年、武田信玄に攻められ、犠牲は大きかったものの落城はしませんでした。 その後になって、菅沼総領家の説得を受け、武田軍のものとなりました。 1573年、武田信玄は病のため武田軍は撤退しましたが途中で信玄は亡くなりました。 この機を逃さず、徳川家康は長篠城を攻めたてました。 城主の正貞は敗北を認め、開城しました。 家康は、武田軍の再侵攻を考え、城を拡張しました。 1575年、長篠の戦いが始まりました。これは、五百の手勢で守る長篠城を、信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5千の大軍をもって攻めた戦いです。 1576年、前年の攻防戦で城主奥平信昌は守り切りましたが、城が大きく損傷したため長篠城は廃城とされました。 奥平信昌は新城に新しい城をつくり、移動しています。 昭和4年、城跡一帯が国の史跡に指定されました。 曲輪跡には、史蹟保存館が建てられ、長篠の戦いを示すための展示がなされています。 平成18年、日本100名城に選定されています。 荒城の月の真意本丸付近には大規模な空堀や土塁が現在も残っています。しかし、ほとんどは埋没、破壊され、畑地や宅地になっています。ただ、一部に石垣の遺構も残っています。 城跡としてほとんど建物はありませんし、目立った石垣もありません。 荒城の月は荒れ果てた石垣や松の枝に音を立ている風など、たくみな絵姿を見せてくれます。月が昇り、全く綺麗な絵を見ているようです。 この長篠城はそういう意味では、あまり荒城の月の言っている絵姿には見えません。 しかし、この長篠城こそ、荒城の月の本当に言いたかったことを示しているのです。 歴史に見るように、この城は大きな戦いをし、結局無くなってしまったわけです。 荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠です。 彼の家は檀家総代を務めており、晩翠は仏教を信仰し、深く理解していました。 仏教の言葉に、「無常」という言葉があります。 常は無い、と書かれていますが、「常」というのは未来永劫変化しないと言うことを意味しています。 ですから、「無常」は、世の中には変化しないものは無いと言うことを示しているわけです。 ただ、この言葉は、仏教の根本思想であり、仏教の心そのものですので、ここでは書き尽くせない深いところがありますが、大意はそのようなことを示しています。 土井晩翠は仏教を深く理解し、この「無常」をよく分かっていたと思われます。 荒城の月の歌詞四番に「栄枯は移る」とされています。栄えたり衰えたり、世の中はいつも変わっていると言うことを意味しています。 土井晩翠は、人々にこのことを告げたかったのです。いつまでも続くことは無いのだと。 荒城の月の中で、本当は「無常」という言葉を使いたかったのかもしれませんが、これでは理解してくれる人が少ないかもしれません。 考えに考えて、同じ意味の「栄枯は移る」としたのです。 土井晩翠が、荒城の月で本当に言いたかったのは「無常」です。 長篠城の歴史は正に彼の真意を示しています。 荒城の月を思うとき、長篠城はその真意を語ってくれる城なのです。 参照 長篠城(Wikipedia)
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