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荒城の月を思う城 吉田城

多くの石垣があり、櫓も少し再建されています
   

荒城の月を思う歴史と真意

吉田城は豊橋市にある城です。多くの石垣があり、櫓も少し再建されています。荒城の月のような情景ですが、それ以上に吉田城の歴史は、荒城の月の真意、「無常」を物語っています。

吉田城の歴史

1505年、牧野古白が築城したとされています。

1506年、牧野古が討死。
戸田氏と、牧野氏が争奪戦を再三行い、城主が次々と入れ替わっています。

1529年、松平清康が吉田城を攻略し、戸田氏まで屈服させて、三河地方の支配権をほぼ確立させました。

1535年、清康が死亡。
松平氏の城番が撤退し、牧野成敏が城主となりました。
1537年、牧野氏を追いはらい戸田宣成が城主となりました。
1546年、今川氏が吉田城を陥落させています。

1560年、今川義元が桶狭間の戦いで討たれ今川氏は三河支配権を失いました。
家康は吉田城を中心として東三河4郡を統率させました。

1590年、豊臣秀吉によって家康が関東に移つされ、池田輝政が城主となりました。
輝政は吉田城や城下町の大改築を行いました。
しかし現存する城跡は輝政の下では完成には至っていません。

明治2年、版籍奉還により、豊橋城となり、明治4年、敷地は兵部省の管轄となりました。
明治6年、失火により多くの建物が焼失しました。

太平洋戦争後、豊橋公園として整備され、昭和29年鉄櫓が再建されました。

吉田城には天守は無く、鉄櫓がその代わりをしていました。本丸御殿は宝永地震で崩壊し、以後再建されていません。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞を思わせる城姿になっていますが、荒城の月の最も言いたかった「無常」を吉田城の歴史は語っています。

荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。
土井晩翠は仏教を信仰し、仏教の根本詩概念「無常」についてよく理解していました。
彼は荒城の月を介して人々にその無常観を伝えたかったのです。

無常は、常が無いと書きますが、その「常」というのは、何時までも変わらないということを意味しますので、この世の中には、何時までも変わらないものは無いという意味になります。
すべてのものは移り変わると言っているわけです。

荒城の月歌詞四番に、「栄枯は移る」とされています。
栄も枯も移り変わるといったわけです。
これは言葉は違いますが、明らかに「無常」を示しています。
土井晩翠は荒城の月の歌詞の中に、世の中は無常であるということを記しているのです。
荒城の月の歌詞は綺麗な絵を見ているように見事に表現されていますが、それ以上に、この「無常」を伝えたかったのです。

荒城の月を思うとき、吉田城の歴史は荒城の月の真意、「無常」を物語っているのです。

参照 吉田城(Wikipedia)

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