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荒城の月を思う城 上野城

荒城の月を思うとき、上野城は土井晩翠の真意を物語ります
   
荒城の月を思うとき、伊賀市にあった上野城は、模擬天守とはいえ、作詞者土井晩翠の言いたかった本当の所を物語っている思われます。
天守台にある天守は3層3階で昭和初期に作られたものです。
松尾芭蕉の俳聖殿や、忍者博物館があり、国の史跡に指定された上野公園になっています。
高石垣は非常に高く、昔の姿を想像することも出来ますし、ここに月が昇る姿は荒城の月の歌詞の意味通りです。
しかし、ここで言いたいのは、この素晴らしい情景だけでなく、荒城の月の言いたかった深い思いなのです。
その真意は、人々に「無常」を伝えたかったのです。

上野城の歴史

平清盛によって建立された平楽寺が起源とされています。

この城の有る丘には仁木氏館がありましたが、室町時代半ばから衰退し始め、戦国時代には名ばかりとなっていました。
権威を回復するため合戦を起こしますが幾度も敗走し、柘植氏との戦では当主が討たれました。

1579年、織田信雄が伊賀平定に向かいましたが、伊賀衆の前に大敗しています。
1581年、織田信長は4万5千の大軍をもって伊賀を平定しました。

本能寺の変の後、豊臣政権となり、1584年羽柴秀吉の家臣、脇坂安治が伊賀守護となりました。
そのすぐ後、筒井定次が伊賀へ来ています。
定次は焼け落ちた平楽寺に築城することにしました。
三層の天守を建て、西に二ノ丸、北に三の丸を配、三の丸の北谷口を大手としました。

関ヶ原の戦いのとき、定次は東軍の徳川家康方となって会津征伐に参戦したため、上野城は筒井玄蕃が留守居役となりました。
上野城を西軍に攻撃された際、筒井玄蕃はすぐに城を明け渡し高野山に逃亡しました。
しかし定次は思い直して軍を引き返し、城を再奪取しています。

関ヶ原の戦い後、定次は本領を安堵され、伊賀上野藩を作りました。
しかし、家康は大坂城を包囲に重要な上野城を強固にするため、鳥居忠政に預けることにしました。
さらに、築城の名手とされる藤堂高虎が入り、上野城を大幅に改修しました。
高石垣を作り、堀を深くし、南に二ノ丸を構築しました。

上野城は大坂城を守るための城として作られたのですが、今度は、大坂城を攻めるための城となったのです。

1612年、大嵐のため天守が倒壊しました。
その後、大坂の陣で家康が勝利し、堅固な城が必要なくなったため天守は再建されませんでした。

明治の廃城令によって廃城処分となり、上野城も多くの建物が取り壊されました。
明治中頃から末期にかけて、東大手門や西大手門が解体されています。

昭和42年、国の史跡に指定され、平成18年、日本100名城に選定されています。

荒城の月の真意

荒城の月は、月が昇るとともに、石垣にはツタが生い茂り、松には風が音を出していると言うような非常に綺麗な絵姿を言っています。
上野城の高石垣などその情景にぴったりで、見事に言い表していると感じます。
荒城の月の作詞者は土井晩翠です。
この土井晩翠は、このような絵姿だけでなく、もっと深い意味を人々に伝えようとしていたのです。

土井晩翠は仏教の信仰も厚く、理解も深いものだったと考えられます。
仏教の言葉に、「無常」という言葉があります。
無常というのは仏教の根本的な概念であり、世の中に変わらないで存続するものはあり得ない、というような意味です。
荒城の月で、土井晩翠は、この無常を人々に告げたかったのです。

荒城の月の歌詞、四番に「栄枯は移る」とされています。
この言葉は、仏教でいう「無常」を表しています。
土井晩翠は、荒城の月の中で、本当は「無常」という言葉を使いたかったのでしょうが、この言葉は理解しがたいですし、宗教的であるため使えなかったのではないかと思います。
そのため、彼は「栄枯は移る」としたのです。
言葉は変わっていますが、言いたかったのはこの「無常」なのです。

上野城は伊賀上野城とも言われますが、数奇な歴史をたどっています。
同じ状態の時は無いのです。
無常そのものではありませんか。
荒城の月を思うとき、土井晩翠の本当に言いたかった「無常」を、この上野城は示してくれていると思えるのです。

参照 上野城(Wikipedia)

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