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荒城の月を思う城 松坂城

荒城の月を思うとき、松坂城の石垣を思い出します
   
荒城の月を思うとき、松阪市にある松坂城の石垣を思い出します。しかし土井晩翠の本当に言いたかったのはその絵姿ではなく、「無常」なのです。
荒城の月の歌詞は、荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、松には風が音を立てている。そこに月が昇ってきているというとても綺麗な絵姿を見事に表現しています。
そのような意味でも松坂上の本丸上段の石垣はとてもよく似合います。
しかし、土井晩翠が言いたかった本当の思いは、「無常」を人々に知ってもらいたいと言うところにあったものと考えられます。
松坂上の歴史を見れば、荒城の月で言いたかった真意がそのまま出ていることがよくわかります。

松坂城の歴史

1584年、蒲生氏郷が12万3千石をもって松ヶ島城に入城しました。
1588年、氏郷は、松ヶ島は城には適さないと考え、現在の地に新たに城を作り始めました。
本丸には5階の天守が作られています。
城下町には松ヶ島の住人を強制的に移住させたり、近江商人を町の中心部に住まわせたりしました。

1590年、氏郷は小田原征伐の手柄により60万石を得て若松城に移り、代わって服部一忠が松坂城に入城しました。

1595年、 服部一忠は豊臣秀吉の怒りをかい自害しました。そのため古田重勝が3万4千石で入ってきました。
1600年、 徳川家康より2万石を加増されましたが、重勝はこの年に死去しました。
重勝の子、重恒はまだ幼少であったため、重勝の弟である重治が後を継ぎました。

1619年、古田氏は石見国浜田城に移ることとなり、紀州藩の藩領となりました。
松阪城には統括するための城代が置かれました。
城内の天守や櫓、門等の建物は放置され老朽化が進んでいたため、天守が台風のため倒壊してしまいました。
このため、天守の無い天守台のみが残ることになったのです。

明治4年、 廃藩置県により廃城となり、さらに明治10年には 失火によって二の丸御殿も焼けてしまいました。
明治14年までには、他の建造物もほとんど壊されました。
現在は米倉のみが残っています。

平成18年、日本100名城に選定され、平成23年、松坂城跡として国の史跡に指定されています。
昭和63年から平成15年にかけて、大規模な石垣修復が行われました。

荒城の月の真意

この松坂城跡には、天守はないものの、天守が乗っていた天守台の石垣が立派に存在します。
その前は広場になっており、周囲は松がたくさんあります。
荒城の月、歌詞一番、春高楼の花の宴が忍ばれます。
荒城の月を思うとき、この松坂城はそのままの絵姿を表しています。

しかし、この歌詞を考えた土井晩翠の本当に言いたかったのは、もう少し深いところにあります。
荒城の月の本当に言いたかったのは「無常」と言うことです。

「無常」は仏教の言葉で、世の中に移り変わらないものは無い、すべてが移り変わると言う意味です。
土井晩翠は菩提寺の檀家総代である家に育ちました。
仏教を深く信仰し、仏教の心を会得していたのではないかと思われます。
荒城の月の歌詞を作るとき、本当は「無常」という言葉を入れたかったのでしょうが、これは宗教の言葉であり、しかも難解な言葉ですので使いたくても使えなかったのだと思います。
このため、彼は、荒城の月歌詞四番で、「栄枯は移る」と言っています。
この「栄枯は移る」は、「無常」そのままです。
荒城の月で本当に言いたかったのは、ここなのです。
多くの人々に、世の中は移り変わらざるを得ないものなのだと伝えたかったのです。

松坂城の歴史はその移り変わりを如実に物語っています。
荒城の月を思うとき、松坂城が目に浮かんでくるのです。松坂城は、荒城の月の本当に言いたかったことを、見事に語ってくれるからです。

参照 松坂城(Wikipedia)

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