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荒城の月を思う城 小谷城

荒城の月の歌詞の真意「無常」を語ってくれる城です
   
荒城の月の歌詞の意味として絵姿の解説もありますが、真意は「無常」にあります。荒城の月を思うとき、小谷城は無常を語ってくれる城だと解釈しています。
長浜市のこの小谷城(おだにじょう)は、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台としてもよく知られています。
この城の歴史は、荒城の月で本当に言いたかった土井晩翠の気持ちを語ってくれています。

小谷城の歴史

最初に作られた時期については、諸説ありますが、1525年ころに築城されたと考えられています。
1538年、六角定頼に攻め込まれ、浅井亮政は小谷城を退城したと言われます。

亮政の孫長政は天正年間に織田信長と戦っています。

1570年、姉川の戦いでは、浅井連合軍と織田連合軍が城から少し離れた場所で戦い、織田軍の勝利とはなりましたが、小谷城の堅固さを考えて城攻めは行いませんでした。
信長は、姉川近くに横山城を築城し、木下秀吉に守らせて、浅井氏に対する前線基地としました。

その後も浅井軍と織田軍とで争いがつづきましたが、小谷城は落城しませんでした。

嵐が襲来したとき、信長は大嶽を落城させ、朝倉軍が撤退するところを強襲して、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました。
信長は、織田信忠などを残して越前に攻め込み朝倉氏を滅亡させました。
秀吉は、小谷城京極丸を陥落させ、すぐに小丸も落としました。
本丸も落ち、長政は自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
朝倉氏、浅井氏ともに滅亡したのです。

その後、浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられましたが、小谷城を嫌い、新たに長浜城を作りました。
そのため小谷城は廃城となっています。
小谷城は落城後、長浜城の建築資材とするため解体されてしまいました。

小谷城の城主は、浅井亮政、浅井久政、浅井長政、羽柴秀吉となります。

昭和12年、国の史跡に指定されています。

荒城の月の真意

荒城の月の歌詞は、春高楼から始まっています。
歌詞の意味は、昔は光輝いていたのに今は荒れ城となり、石垣にはツタが生い茂って松は風の音を立てている、と言った絵姿を綺麗に描き出しています。
小谷城の城跡は、一見すると何もないと言ってよいほどです。
建物は無く、石垣もさほど目立つほどではありません。
しかし小谷城の歴史は荒城の月の言いたかったことを如実に物語っているのです。
仏教でいう「無常」をはっきりと語っているのです。
「無常」というのは、この世の中には未来永劫変化しないものはあり得ないと言う意味です。

荒城の月の作詞者は土井晩翠です。
土井晩翠は仏教を信仰し、仏の教えを深く理解していたと思われます。
彼は、歌詞の中で、本当は「無常」と書きたかったのでしょうけれども、この言葉は難しいですし、宗教語であり書くことを避けたものと考えられます。
しかし彼はこの無常を人々に伝えたかったのです。

荒城の月歌詞四番をご覧ください。「栄枯は移る」とされています。
これは「無常」を表している言葉です。
土井晩翠は、荒城の月をもって、人々に「無常」を告げたかったのです。
小谷城の今の姿はさほど絵にはなりませんが、その歴史を思うとき、はっきりと荒城の月の本当に言いたかったことを物語っています。
荒城の月を思うとき、その歌詞の意味を深く読み取れば、小谷城の歴史は真意を語りかけてくれるのです。

参照 小谷城(Wikipedia)

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