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荒城の月を思う城 彦根城荒城の月の言いたかった世の無常を思う城です |
荒城の月を思い出す彦根城です。井伊直政はここには住めませんでした。荒城の月の言いたかった世の無常を思うのです。彦根城の歴史1600年、関ヶ原の戦いの後、井伊直政は、18万石をもって近江国北東部に行くことになりました。直政は、ここで石田三成の居城となっていた佐和山城に入城しました。 この城は、古い構造であることと、三成が住んでいた城であったため、直政はあまり気に入りませんでした。 そのため別の城に移りたいと思っていましたが、関ヶ原の戦いでの傷がもとで、1602年死去してしまいました。 その後直継が家督を継いぎましたが幼少でした。 直政の元家臣であった木俣守勝は、徳川家康と相談して直政の遺志を引き継ぎ新たな城を作ることにしました。 1603年、彦根山に彦根城の築城を開始ししました。 築城には尾張藩や越前藩など7か国から12の大名に手伝うよう命じられました。 これは天下普請と言われ、井伊直継の住む城を他の大名たちが作ったのです。 このころになりますと、城は軍事的な拠点というよりも、権威の象徴としての存在になっていました。 江戸幕府の重要な備えである彦根城も、彦根藩の各組織の管轄となり、天守まで倉庫として使われていたほどです。 しかし、1854年、天秤櫓の大修理が行われ、石垣の半分が積み直されています。 幕末、大老を務めた井伊直弼はこの城下に住んでいます。 直弼が若いころ住んでいた屋敷は「埋木舎」として現在も残っています。 明治の廃城令で各地の城が破壊されて行きましたが、この彦根城は残されました。 これは、明治天皇が城の保存を命じたためと言われます。 大隈重信が城の保存を天皇に申し上げた結果だと言う説もあります。 昭和19年、彦根城は井伊家から彦根市へ寄付されました。 昭和20年、8月15日夜に連合軍が夜間爆撃する予定となっていましたが、、当日の正午に終戦となり、爆撃は行われず、間一髪で焼損を免れています。 昭和27年、天守と附櫓及び多聞櫓が国宝に指定されました。 昭和31年、「彦根城跡」として特別史跡に指定されています。 平成に入ってから、天守、附櫓、多聞櫓などの大修理が行われています。また、石垣の構築調査や歴史調査等が行われています。 平成18年、日本100名城に選定されました。 荒城の月の真意荒城の月を思うとき、この彦根城は少しおもむきの異なることに気が付きます。立派な天守がそびえ、他の建物もみなそろっていて、とても荒れ果てた城には見えないからです。 荒城の月の歌詞の意味を一見すると、昔は華やいでいたのに、今は建物は無く、残った石垣にはツタが生い茂っていると言う絵姿を思ってしまいます。 これはとても綺麗な絵を見ているように巧みに表現されています。 土井晩翠の作詞ですが、実に見事です。 荒城の月で、本当に土井晩翠が言いたかったのは、この絵姿ではないのです。 歌詞、四番に「栄枯は移る」とされていますが、ここなのです。これが彼の言いたかった荒城の月の真意なのです。 仏教に「無常」という言葉があります。 土井晩翠は仏教を深く信仰し、理解も深かったと思われます。 この「無常」というのは、世の中には移り変わらないものは無く、すべて変化していくものであると言う意味を持っています。 土井晩翠は荒城の月で、きっと、この「無常」という言葉を使いたかったと思いますが、これを「栄枯は移る」と表現したのです。 言葉としての表現は違いますが、彼の言いたかったことは「無常」なのです。 彦根城はその歴史において、荒城の月で土井晩翠の本当に言いたかった真意を語ってくれます。 本来、井伊直政が住むべきであったのに、それはかないませんでした。 しかしその思いを受け継いで、この城を作り上げてくれた人も居るのです。 明治天皇のお言葉のおかげや、空襲で焼かれるはずのものが残っています。 土井晩翠は、荒城の月という歌詞を通じて無常を人々に知ってもらいたかったのです。 参照 彦根城(Wikipedia)
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