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荒城の月を思う城 安土城荒城の月の歌詞を思う絵姿で、無常も語っています |
荒城の月の歌詞を思う城 (城跡・城址) として、八幡市安にあった安土城があげられます。天守はありませんが、長い石段と石垣があり、荒城の月の歌詞のような絵姿に見えますし、その歴史は土井晩翠の真意、「無常」も語っています。安土城の歴史1576年、織田信長が安土山に築城を開始しました。1579年、天主が完成し、信長が住むようになりました。 1582年、明智光秀が接待役となって徳川家康を迎えています。 本能寺の変の時は蒲生賢秀が在城していました。 信長の自害後、蒲生賢秀は、信長の妻子などを安土から移動させました。 山崎の戦いの後、明智軍は退却し、本丸付近の天主などの建物は焼けてしまっています。 本能寺の変の後もしばらくの間は、織田氏の居城となっており、信長の嫡孫秀信が入っていました。 しかし、豊臣秀次の八幡山城を作るため、1585年に廃城されたと言われています。 1918年、安土城保存のため「安土保勝会」が設立されています。 1926年、安土城址が史蹟として指定されました。 昭和2年、「安土城址」の石碑を建てられました。 昭和3年、滋賀県が管理団体に指定され、大手門跡に標石を建て、二の丸跡の復旧や石段の改修を行うとともに、天主や本丸跡の発掘調査も行っています。 昭和25年、安土城跡となり、その後、特別史跡に指定されました。 昭和35年、城跡修理に着手しました。 平成18年、日本100名城に選定されています。 荒城の月の真意荒城の月は土井晩翠の作詞によるものです。土井晩翠の詩を作る技術は人並み外れたものであり、大変優れています。 この、荒城の月の歌詞は、昔は栄えていたであろう城も今は荒れ果て、石垣にはツタが生い茂り松には風が音を立てていると、まるで絵を見ているように描写しています。 安土城もその通りの姿になっています。 土井晩翠は檀家総代を務める家に育ち、仏教を深く信仰していました。 仏教の言葉に「無常」という言葉があります。 「無常」というのは、常は無いと書かれますが、「常」とは、いつまでも変化しないと言うことを意味しています。 つまり、この世には、いつまでも変化しないものは無いのだと言ってるわけです。 土井晩翠は歌詞の中で「無常」という言葉を使いたかったのでしょうが、詩としては似合いませんので、使っていませんが、晩翠の言いたかったことはこのことなのです。 荒城の月、歌詞四番に、「栄枯は移る」とされています。 これは「無常」と同じ意味になります。 土井晩翠は、荒城の月の歌詞をもって、人々に世の中は無常なのだと伝えたかったのです。 これが本当に言いたかった彼の真意なのです。 絵姿も非常に綺麗に描かれ、安土城はその姿を見せていますが、同時にその歴史は「無常」を物語っています。 荒城の月を思うとき、安土城は土井晩翠の真意を語ってくれるのです。 参照 安土城(Wikipedia)
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