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荒城の月を思う城 観音寺城いかにも荒れ果てた城跡ですが、歴史が無常を物語っています |
荒城の月の歌詞を思う城 (城跡・城址) として、近江八幡市にあった観音寺城があります。石垣は半分壊れかけており、いかにも荒れ果てた城跡です。美的状景よりも、歴史が荒城の月の言いたかった無常を物語っています。観音寺城の歴史1335年、六角氏頼が篭もったと言われていますが、この時はまだ観音正寺を砦として使っていたのではないかと考えられています。1352年、佐々木道誉が、「佐々木城」といわれていた観音寺城で籠城しています。 1468年、観音寺城付近一帯で攻城戦が展開されています。 数日間の攻防戦の末、城は明け渡されました。 同年中に二度目の戦いが起こっています。この時は城に火が放たれました。 1469年、六角高頼は焼失した観音寺城を修築し、3度立てこもることになりました。 これに対して京極軍は多賀高忠らが攻めにかかりました。 観音寺城にいる高頼軍は支城や周辺の砦を整備し、交戦状態になりました。 京極軍は猛攻を行いましたが、高頼軍の防備は固く、ついに京極軍を撃退しました。 1502年、六角高頼の被官であった伊庭貞隆、伊庭行隆に反乱され、六角高頼は音羽城に退避しました。しかしその後、和議を結んでいます。 1516年、再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱を起こしました。しかし観音寺城を攻め落とせず浅井氏のもとにいっています。 1525年、六角定頼が江北に行っていた隙に、伊庭氏が3度目の反乱を起こして観音寺城を攻撃しましたが、留守居役の後藤左衛門が守りました。 戦国時代には城の改築が大幅に行われていますが、六角義賢の頃には浅井長政に敗れ、衰退していきました。 1568年、織田信長に支城の箕作城などを落とされ、六角義賢は観音寺城を開城しました。 その後、六角義賢は観音寺城に戻れず、そのまま廃城になりました。 観音寺城は、ほぼ1000ヵ所以上の曲輪があり、ほとんどの曲輪が石垣で囲まれています。 日本国内における屈指の大規模な山城であったと見られます。 平成18年、日本100名城に選定されました。 荒城の月の真意荒城の月の歌詞は土井晩翠の作詞によるものです。土井晩翠の作詞力は抜群であり、現在の人々もこの詩を味わっています。 荒城の月の歌詞の意味は、一見しますと、荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、松は音を立てていると言った綺麗な絵姿を思わせます。 それはその通りなのですが、土井晩翠の本当に言いたかった真意はもう少し深いところにあります。 彼の生まれ育った家は、菩提寺の檀家総代であり、仏教をよく理解していました。 仏教の言葉として、「無常」という言葉があります。 「無常」は常は無いと書かれますが、この「常」というのは、いつまでも変わらないことを意味します。 このため、「無常」は、いつまでも変わらないものは無い、ということを示しています。 荒城の月で、土井晩翠が本当に言いたかったのは、この「無常」です。 歌詞四番に、「栄枯は移る」とされています。これは「無常」とおなじことです。 恐らく、彼は歌詞の中で、「無常」と言いたかったのでしょうが、詩としては使いにくく、「栄枯は移る」としたのです。 観音寺城の歴史は正に「無常」を語っています。戦いに戦いを重ね、どれだけ多くの人が傷ついたことでしょう。 城は改築を重ねたあげく、廃城となり見る影もありません。 荒城の月を思うとき、この観音寺城の歴史は土井晩翠の真意である「無常」を見事に物語っているのです。 参照 観音寺城(Wikipedia)
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