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荒城の月を思う城 二条城二条城は城とか城跡とかいうよりも御殿のようです |
荒城の月の歌詞の本当の意味を思うとき、二条城のことが浮かびます。荒城の月の本当に思うところは「無常」にあります。二条城は城とか城跡とかいうよりも御殿のようです。 城内全体は国の史跡、二の丸御殿は国宝、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画などは重要文化財、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されています。 平成6年、世界遺産に登録されています。 二条城の歴史二条城と呼ばれる所はいくつか存在しました。4つを記します。1 将軍足利義輝の居た城。「二条御所武衛陣の御構え」。1565年戦国にあって義輝は斯波氏の屋敷跡に自ら築いた城です。 2 将軍足利義昭の居城で、織田信長が作った城。信長自身が現地で陣頭指揮をしていました。 3 織田信長が宿所として作り、後に皇太子が使われた「二条新御所」。 4 徳川家康が宿所として作った城。 現在ある二条城は4の城です。 1と2は同じ場所あった城ですが、たまたまそこに作られたものであり、連続性はありません。 2と3は「旧二条城」と呼ばれることもあります。 2については、1573年、義昭は二条城において、作ってくれた信長に対し挙兵しました。信長は町屋を焼き払い包囲しましたが、城自体は攻撃していません。しかしその後御殿などは破壊されたと伝えられています。 また更に、羽柴秀吉も二条に城を作っています。秀吉は信長の二条御新造の隣に屋敷を持っていましたが、1580年、信長に没収されてしまいました。 4の徳川家康の二条城について記します。 1601年、関ヶ原の戦い後、徳川家康は上洛時の宿所のために大宮押小路に築城を決めました。 町屋を立ち退かせ、西国諸大名に費用と労務の割り当てをする天下普請で築城が始まりました。 1602年、天守に着工し、1606年に完成しました。 1603年、家康は征夷大将軍となり、竣工間もない二条城に入城しました。 1611年、二条城の御殿で家康と豊臣秀頼の会見が行われています。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚いたといわれています。 1614年、大坂冬の陣がおきました。二条城は家康の本営となり、伏見城からの将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から出撃しています。 1619年、秀忠は和子の天皇への入内に備え、二条城の改修を行っています。 1620年、徳川和子は長大な行列を二条城から作り、後水尾天皇へ入内しました。 1624年、徳川家光が将軍となり、秀忠が大御所となったため、大改築が始まりました。 1626年、天皇を迎え、5日間に渡って大宴会がおこなわれました。舞楽や能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、歌会などが催されました。この行幸が二条城の最盛期でした。行幸(天皇をお迎えする事)のために建てられた行幸御殿は移築され、その他多くの建物は解体されました。 1634年、秀忠死後、家光が二条城に入城したのが最後となりました。その後二条城に将軍が入ることはなく、幕末まで230年間、二条城はひっそりと姿を消しています。 その間に地震や落雷で次第に建物は破損していきました。 1750年には落雷により天守を焼失しています。 さらに1788年の大火の際には本丸御殿、隅櫓などが焼失しました。 破損部分は修理が行われましたが、亡くなった建物については再築されず、幕末を迎えています。 1860年、京都地震により、御殿や各御門、櫓などが大きな被害を受けました。 1862年、14代将軍、徳川家茂の上洛のため、荒れ果てた二条城の改修が行われました。二の丸御殿は全面修復され、本丸には仮御殿が作られました。 明治3年、二条城は留守官の管轄下に置かれました。 明治4年、二の丸御殿は京都府の庁舎となっています。 明治17年、宮内省の所管となって、「二条離宮」と改称されました。 昭和14年、宮内省より京都市に下賜されました。その後、「元離宮二条城」という名称となっています。 昭和40年、庭園になりました。 平成18年、日本100名城に選定されています。 荒城の月の真意京の二条というところは権威の象徴としての場所だったようです。ここに城を構えることで、自分が天下一だと誇張しているわけです。 しかしこの二条城の主は時代と共に移り変わっています。場所も建物も変わってきています。 荒城の月の歌詞の意味を一見して思うのは、昔は栄えたであろう城も、今は荒れ果てた城跡となり、石垣にはツタが生い茂り、松は風の音を立てていると言った意味にとれます。 この詩を造ったのは土井晩翠です。 しかし、土井晩翠の作ったこの荒城の月にはもう少し深い意味が込められています。「無常」です。 土井晩翠は菩提寺の檀家総代を務めていた家に生まれ育ち、仏教を信仰し、深い理解をしていました。 仏教の言葉に「無常」という言葉があります。この言葉は「常」は「無」いとかかれていますが、この常というのは、いつまでも変わらないと言うことを意味しています。 ですから、「無常」は、いつまでも変わらないものは無い、という意味りなります。 晩翠はこの仏教の根本概念である「無常」をよく知っていたと思われます。 荒城の月の歌詞全体からもこのことは伺えますが、歌詞四番に「栄枯は移る」とされています。 「栄枯は移る」は時と共に変わる、ということですから、仏教の「無常」と同じことを言っているわけです。 土井晩翠は、荒城の月において、本当に言いたかったのはこの「無常」ということを言いたかったのです。 荒城の月を思うとき、二条城の歴史は、正に土井晩翠の人々に伝えたかった真意を物語っていることがわかります。 参照 二条城(Wikipedia)
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