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荒城の月を思う城 大坂城

荒城の月を思うとき、大坂城の歴史は無常を語ってくれます
   
荒城の月の歌詞の意味として城跡や状景の解説もありますが、その真意は「無常」にあります。荒城の月を思うとき、大坂城は無常を語っている城だと解釈できます。
大坂城は豊臣秀吉の築いた城ですが、ついには豊臣家の滅亡という歴史を持っています。
豊臣秀吉が築いた大坂城の遺構は現在全て埋没しています。
現在見ることのできる遺構は、徳川氏が修築を施したときの遺構です。

大坂城の歴史

1583年、現在の大阪市中央区に豊臣秀吉によって大坂城が築かれました。

1598年、豊臣秀吉死去。
1600年、関ヶ原の戦いで敗れ、徳川家康によって所領が分配された結果、秀吉の遺児の豊臣秀頼は65万石の一大名に転落しました。
しかし豊臣秀頼は依然として大坂城を居城としていました。

1614年、大坂冬の陣において、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城となっています。

1615年、大坂夏の陣において、大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡しました。

落城後の大坂城は、家康の孫松平忠明の居城となりましたが、大坂城下の復興を行うためでした。
1619年、忠明は大和郡山へ移り、大坂藩は廃止され、幕府直轄の天領となっています。
1620年、2代将軍徳川秀忠にり、大坂城の修築工事が開始されました。
工事は三期分けられていますが、西の丸から始まり、本丸、山里丸などと進み、1629年に完成しています。

幕府直轄となった大坂城ですので、城主は将軍自身ですが、譜代大名から選ばれた城代が預かり管理しました。

江戸時代には何回か火災が発生していますが、そのたびに修復されています。
1660年7月には火薬庫に落雷して大爆発が起きました。
貯蔵中の大量の火薬のほか、鉛弾や火縄など焼失しました。爆発はすさまじく、城内で29人が死亡し、130人が負傷したとされます。同時に天守や御殿など多数の建物が壊われました。城外でも1481戸が倒壊しました。

1868年、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いで大坂城は新政府軍に開け渡されました。この混乱のうちに出火し、御殿など城内の建物のほとんどが焼失しました。

昭和3年、昭和天皇の即位記念事業として大坂城の復興工事計画が始まりました。
昭和6年、復興天守が竣工し、大阪城公園として開園しました。

太平洋戦争中の空襲では1トン爆弾が多数投下されましたが、天守閣に関しては破壊を免れています。

荒城の月の真意

元大坂城は、現在、広大な歴史公園となり、天守閣は展望台となって有料公開されています。
大阪城ホール、多目的グラウンド、軟式野球場、野外音楽堂などもあり日本さくら名所100選にも入っています。

天守閣に上る月は、きっと絵葉書を見るように綺麗でしょう。

荒城の月では、荒れ果てた城の石垣にはツタが生い茂り、松は風の音を立ていると言っています。
このように解釈する場合、大坂城からはとても荒城の月を思うことは困難です。

しかし、荒城の月を作詞した土井晩翠の本当の気持ちをこの大坂城は語ってくれているのです。
それは、「無常」ということです。

荒城の月の歌詞を作ったのは土井晩翠です。
土井晩翠は仏教を深く信仰し、理解もしていたと思われます。
仏教の言葉に「無常」という言葉があります。この無常というのは常が無いと書かれていますが、常であり続けることは出来ないと言う意味であり、この世の中の物すべては、時と共に変化していくものであると言うことを言っています。仏教の根本的概念であり、仏教の心を表す言葉です。
荒城の月の中で、土井晩翠はこの「無常」という言葉を使いたかったのでしょうが、歌詞としては不向きであるため使うことが出来なかったのでしょう。
しかし、晩翠はそれを言いたかったのです。
荒城の月歌詞四番に「栄枯は移る」としてあります。
栄えたり衰えたりすることは必ず時間と共に変わるのだと言っているわけです。
「無常」という言葉に変えて、「栄枯は移る」を持ってきたわけです。無常と同じ意味を持っています。

土井晩翠は、荒城の月の歌詞として、綺麗な絵姿を表面に出していますが、彼の本当に言いたかったのは、世と言うものは無常であると、言いたかったのです。
荒城の月の歌詞を思うとき、土井晩翠の真意である「無常」を大坂城の歴史は明確に物語っているのです。
時とともに変わっていく大坂城は、荒城の月の言いたかったことを語ってくれているのです。

参照 大坂城(Wikipedia)

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