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荒城の月を思う城 千早城

荒城の月の真意は「無常」にあります。千早城の歴史はこのことを語っています。
   
荒城の月の歌詞の意味について城跡や状景の説明もありますが、その真意は「無常」にあります。荒城の月を思うとき、千早城はこのことを語っている城だと思います。
千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡にある城です。別名としては、楠木詰城、金剛山城、詰め城、かくれ城などがあります。

千早城の歴史

1332年、楠木正成により築城されたと言われます。
交通、軍事の要であった千早街道から登った支脈の先端に築かれた山城です。
城は、千早川の渓谷を使っており、北谷、妙見谷、風呂谷があり、四方の殆どを深いに谷に囲まれています。
楠木正成は赤坂城の背後に千早城を築いたのです。

楠木正成は金剛山の要所要所に点々と要塞を築き、総指揮所として千早城を使いました。
下赤坂城、上赤坂城、千早城で鎌倉幕府軍と対峙しました。

1333年、上赤坂城で戦いが始まり、楠木正季が千早城に引くとともに上赤坂城は落城しました。

鎌倉幕府軍は千早城を大軍で攻めました。千早城に籠城した楠木軍は小勢であったと伝えられています。
上赤坂城の勝利で勢いづいた鎌倉幕府軍は、ろくに陣も構えず、突進しました。
千早城では大石を投げ落とし、逃げ惑う兵に矢が降りそそぎ、死体の山が谷を埋めたと言われます。

幕府軍は、水源を断ち持久戦に持って行こうとしましたが、城内には水も食料も十分蓄えていました。
幕府軍は近くの山から城ヘ橋を掛けて攻め上ろうとしました。
京都より大工衆を呼び集め、巾15尺、長さ100尺の橋を造ったと言われます。
楠木正成は、油を橋に注ぎ、火を付けました。橋に立っていた兵士は猛火に包まれ、地獄になったと太平記に記載されています。

千早城に掛り切りになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇が討幕の綸旨を全国に発しました。
これに播磨国、伊予国、肥後国が応えたため、、千早城を囲んでいた兵士は引き上げていきました。

手薄となっていた鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡してしまいました。
100日戦争と言われる千早城の戦いが終わって、わずか12日後に鎌倉幕府が滅亡しています。

千早城は楠木氏の居城となり、城主は正行、正儀、正勝と続きました。
1392年、北朝方の畠山基国によって攻撃され、ついに千早城は落城しました。

1934年、国の史跡に指定。
1989年、大阪みどりの百選に選定。
2006年、日本100名城に選定。

荒城の月の真意

戦国時代とはいえ、何のために城を築き、城を守り、ついには城を失うことになるのでしょうか。
この千早城の歴史は苦しみの連続のように思えます。
現在は何も残っていないと言っても良いくらいです。あるのは「千早城址」と書かれた石碑くらいのものです。
尊い命がどれだけ失われたことでしょう。哀れを感じます。

荒城の月の歌詞には、春高楼の宴から始まり、石垣にはツタが生い茂り、松には風が音を立てていると言った情景が記されています。
そのような視点で解釈しますと、千早城跡には大きな石垣もなく、荒れ果てすぎて絵姿になりません。
荒城の月はこのような城のことは言っていないのでしょうか。
いえ、そうではありません。
むしろ、荒城の月の歌詞の本当の意味を思うと、この千早城は、真意を物語っているのです。

荒城の月の歌詞は土井晩翠が作りました。
土井晩翠はどのような思いで荒城の月を書いたのか、その真意を考えてみますと、「無常」という言葉が浮かんできます。
晩翠は仏教を信仰し、深く理解していましたので、仏教でいう言葉の「無常」を詩の中に入れたかったのではないかと思いますが、それは言葉が難しすぎることと、宗教用語であることから入れられなかったものと思われます。
しかし本当に言いたかったのはこの「無常」なのです。
無常は、常は無いと書きますが、常というのはいつまでも変わらないことを意味しますから、この世の中には変わらないでいられるものは無いと言う意味になります。
荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」とあります。
栄枯は時と共に移り行くとしてあります。
これは、仏教でいう「無常」にほかなりません。
土井晩翠は荒城の月の歌詞をもって、人々に、「無常」を伝えたかったのです。これが彼の真意なのです。

荒城の月を思うとき、千早城の歴史は「無常」を語ってくれます。
土井晩翠の本当に伝えたかったことを如実に示しているのだと、私は解釈しています。

参照 千早城(Wikipedia)

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