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荒城の月を思う城 竹田城

絵姿と共にその歴史は真意を語ってくれます
   
荒城の月を思うとき、竹田城が目に浮かびます。絵姿と共にその歴史は荒城の月の歌詞の言う真意を語ってくれます。歌詞の意味はこの城跡の歴史そのものです。

竹田城の歴史

1431年、山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主であったと考えられます。
当時、但馬守護の山名氏と、播磨守護の赤松氏の間で度重なって衝突が起きています。

1467年、細川勝元と山名宗全の戦いが一因となって応仁の乱が起こっています。
但馬は細川氏と山名氏の争いの場となりました。

1577年、竹田城の戦いが起こっています。
織田信長が羽柴秀長に太田垣輝延の守る竹田城を攻めさせました。
秀長隊は真弓峠から入り、最初に岩洲城を攻めたのち、次いで竹田城を攻めました。
一説には「竹田城側は高所から岩石を投げ落とすも、攻め手側はものともせず、鉄砲三百丁にて打ち入った」とされています。

1580年、再び信長の命で秀長が攻めました。
このとき、竹田城はさしたる抵抗もせず降伏しました。
太田垣氏による支配は完全に終わり滅亡しました。

その後、秀吉に投降した斎村政広が竹田城の城主となっています。
赤松広秀の改修により現在の竹田城の形が完成されました。

最後の城主となった赤松広秀は、関ヶ原の戦いで西軍につきましたが西軍は敗戦しています。

広秀の竹田城は、家康の命により 山名豊国が入城しました。
その後江戸幕府の指示により、竹田城は廃城となりました。

昭和18年、国の史跡に指定。
平成元年、角川映画のロケーションが行われています。3億円を投じて、天守閣、大手門、塀等のセットが建設されました。また数年後にも原城を再現して、ロケ地に使われました。

平成18年、日本100名城に選定。
2005年度の来客数は一年間で33,000でした。100名城選定で更に来客数は増加しています。

竹田城は、険しい地形の上に、すべての曲輪を石垣で取り囲んであり、総石垣の城です。山頂の城郭としては最後の近世城郭となりました。
竹田城は周りにいくつもの城を作り支城を多く持っています。知られているものは7つあります。
季節によっては雲海の中に浮かぶ城となります。

荒城の月の真意

荒城の月を思うとき、真っ先にこの竹田城の絵姿が浮かびます。
石垣づくりの曲輪が何重にも重なり、大規模な城跡ですし、建物は見当たりません。
正に荒城です。
ここに月が昇れば、荒城の月の歌詞の通りの絵姿になります。

しかし、荒城の月を作詞した土井晩翠は、そういう絵姿以上に、もっと深い意味での真意を持っています。
本当に言いたいことがあるわけです。
それは、仏教の言葉で「無常」ということです。

土井晩翠は実家が檀家総代を務めていた家に生まれ育ち、仏教を信仰し、深い理解がありました。
本来ならば、荒城の月の歌詞の中で、この言葉を使いたかったのでしょうが、それは避けました。
「無常」というのは、常であるものは無い、と書かれています。
常であると言うことは、いつまでも変わらないと言うことを意味しますので、いつまでも変わらないものは無い、という意味になります。

荒城の月、歌詞、四番に、「栄枯は移る」とされています。
栄えたり衰えたりするのは世のならいであり、いつまでも同じではいられない、と言っているわけです。
「栄枯は移る」は「無常」と同じ意味です。
土井晩翠は、荒城の月の中で、このことを言いたかったわけです。

竹田城は絵姿も荒城の月の通りですが、この城の歴史は正に「無常」を物語っているわけです。
荒城の月で、土井晩翠の言いたかったその真意を竹田城の歴史は語ってくれるのです。

参照 竹田城(Wikipedia)

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