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荒城の月を思う城 篠山城

荒城の月を思う城の姿に篠山城の石垣はぴったりです
   

荒城の月を思う歴史と真意

荒城の月を思うとき、城は荒れ果て、月が昇り、石垣にはツタが這っている、この姿に篠山城(ささやまじょう)の石垣はぴったりです。

篠山城の歴史

1609年、徳川家康は、松平康重を丹波国八上城に移しました。
同年、徳川家康は、松平康重に新城の築城を命じました。

その目的は、山陰道の要となる丹波篠山盆地に城を築き、豊臣氏や西国諸大名をおさえることにあったと言われます。
篠山盆は四方を山に囲まれていますが、その中心部の丘陵に築城することになりました。この丘陵が笹山です。現在の兵庫県篠山市になります。

設計は藤堂高虎が担当しました。指揮官として池田輝政が当たっています。
松平康重に新城の築城を命じられたとはいえ、松平康重に費用を負担させたのではありません。
15か国20の大名に費用や労役を出させたのです。
このように他国の大名に作らせる普請方法を天下普請といいます。
築城開始からわずか6か月で完成しています。

その後、篠山城は、松井松平家一代、藤井松平家などを経て、最後は青山家六代の居城となっています。

明治4年、廃城となりました。
明治6年、城の建物が壊され始めました。しかし、旧藩士の安藤直紀の働きかけなどもあって二の丸の大書院は保存されることになりました。
昭和19年、せっかく残された大書院が焼失してしまいました。

昭和28年、 内堀は埋め立てられ、公園化していきます。
昭和31年、国の史跡に指定。
平成12年、二の丸の大書院(おおしょいん)が復元されました。現在大書院は一般公開されています。

荒城の月の真意

荒城の月の作詞者は土井晩翠です。
瀧廉太郎が作ったと思われるかもしれませんが、瀧廉太郎は作曲したのです。
作詞者の土井晩翠は、仏教を信仰し、深く理解していました。
この仏教の心が、荒城の月の歌詞の根底にあるように感じます。

篠山城は取り壊され、今は天守は無く、石垣が残っています。
徳川家康が作らせた城が消え失せているのです。
この廃城となった城跡の石垣に、月が昇る様子は荒城の月の歌詞に言う絵姿の通りです。

しかし、土井晩翠の言いたかった荒城の月の真意は、この絵姿のほかにもっと深い意味を持っています。
仏教にいう「無常」です。
この無常は、いつまでも変らないものはこの世には無い、すべてが時と共に変わっていくと言う意味を持っています。

荒城の月、歌詞、四番に「栄枯は移る」とされています。
これは、時と共に移り変わらざるを得ないという意味ですから、「無常」と同じことを言っています。
土井晩翠は、この「無常」を人々に伝えたかったのです。
荒城の月の歌詞としては「無常」という言葉は使いにくく、「栄枯は移る」としたわけですが、彼の本当に言いたかったのは「無常」なのです。

篠山城の城跡は、絵姿も荒城の月の歌詞の通りですが、それ以上に、晩翠の言いたかった「無常」を語っているのです。

参照 篠山城(Wikipedia)

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